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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その2) [広重・名所江戸百景]

取材:2018年10月10日(水)
アップ:2018年10月24日(水)

前回(その1)は、「広尾ふる川」を画いた場所が天現寺付近と考え、この近辺を取材しました。また、画かれた橋は、何橋か確証のないまま、漠然と天現寺橋であると考え、前回は、天現寺橋近辺を取材しました。
 ところが、その後、#01の右に示した、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵をネット上で発見し、この絵は天現寺橋より約800m下流の四之橋(しのはし)付近から画かれた絵であることが判りました。
 この絵は、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵で、広重が名所江戸百景を画いた6年前54歳のときに画いた絵です。この表題に書いてある橋「相模殿橋」とは、古地図にも明記されているように、「四之橋」のことで、この橋名は、現在もそのまま残っています。

#01、名所江戸百景「広尾ふる川」と絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
$01広尾ふる川と麻布古川相模殿橋JPEG.jpg
二つの絵は、明らかに同一の場所をほぼ同一の視点から画いています。両方とも俯瞰描写で絵本江戸土産の方は、推定6mの高さから画かれています。名所江戸百景の方は、推定30mほどの高さから画かれています。
 絵本江戸土産の方は、実際にこの高さから見て画いたという可能性はありますが、名所江戸百景の方は、広重の得意とする「ありえない視点」からの想像(創造)の絵と考えられます。
 さて、この二つの絵で、古川にかかっている橋は、前述のとおり、四之橋です。画面左の料亭は、古地図に⑨と示したように、「狐鰻」という料亭です。橋と料亭の間によしず張りの茶屋があり、この通りは、結構人通りが盛んであったことを物語っています。
 料亭の、右側の屋根は、黒田甲斐守等の武士の屋敷の屋根と考えられます。さらに、その後方に広尾原が画かれています。
 この二つの絵は、同一の場所を画いているのにかかわらず、印象がかなり違います。特に川の両岸と広尾原の部分は、絵本江戸土産の方は、草が荒れた感じで生えているのに対し、名所江戸百景の方は、庭園の草地のように良く手入れされているように画かれています。また、石垣も絵本江戸土産の方は雑に積んであるのに対し名所江戸百景では形の整った石をきれいに積んでいるように画かれています。 これは、実際の景色がこのようになったのではなく、名所江戸百景の方は、写実性からやや脱却し、様式美の方向へ進んで行った広重の変化と見て取れます。このことは、前々回の「鎧の渡し小網町」でも同様なことが見られました。

#02、広重「広尾ふる川」の舞台(広域版)
$02広尾ふる川近辺の古地図(広域).jpg
 今回の取材も、#02の(イ)の地下鉄「広尾」駅で下車、①の天現寺付近を再取材し、さらに⑥光林(禅)寺、⑦、⑧、⑩四之橋付近へと歩を進めました。

#03、広重「広尾ふる川」の舞台(古地図・拡大版)
$03A05広尾ふる川近辺の古地図(拡大).jpg


#04、広重「広尾ふる川」の舞台(現在)
$04広尾ふる川近辺の現在の地図(拡大).jpg


#05、光林禅寺表札(駐車場)
$05南麻布光林寺Ⅱ065.jpg
光林寺(こうりんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。慈眼山光林寺。所在地は東京都港区南麻布四丁目11番25号。

#06、光林禅寺の山門
$06南麻布光林寺Ⅱ066C.jpg
取材日の一寸前(2018年9月30日)に、光林寺にて女優の樹木希林さんの葬儀が執り行われました。

#07、四の橋交差点
$07四の橋交差点Ⅱ074C.jpg
地図の⑦と⑩の中間辺りから、南側交差点を望む。

#08、四之橋(四の橋交差点側から望む)
$08四の橋北詰Ⅱ076.jpg
橋の表記は「四之橋」で、読み方は「しのはし」です。橋の北側すぐの明治通りの交差点名は「四の橋」交差点です。古地図では「四ノ橋」で、「相模殿橋トモ云」と記されています。これは、地図で⑦の位置に土屋相模守の下屋敷があったためにそう呼ばれました。
 広重の名所江戸百景「広尾ふる川」で画かれた橋は、まさにこの橋でした。

#09、四之橋下流から古川と四之橋を望む
$09広重広尾ふる川に相当する写真Ⅱ080C.jpg


#10、名所江戸百景「広尾ふる川」が画かれたと同一の現在の視点
$10広尾ふる川今昔比較(四の橋).jpg
この画像が、名所江戸百景「広尾ふる川」画かれた、視点に最も近い画像と思われます。
 広重の広尾ふる川の原画では、近景に木造の橋、ヨシズ張りの茶屋、評判の鰻屋が見られ、遠景に庶民が散策を楽しむ広尾原が広がっているという、江戸時代としてみれば、郊外の一観光スポットのような地域を画いた絵であります。
 それに、対し、この写真では、中心となるのは、コンクリート製の川の護岸の壁と上を覆う高速道路というなんとも都会の無機質な景色で、名所というには、程遠い画像でした。 
 しかし、この一枚は、広重の視点と同一の場所からの一枚で、押さえの写真として重要です。
ここで、これとは別に、この近辺で、「広尾ふる川」のイメージにより近い画像が無いかということで探して見ました。そうしたところ、本シリーズの前々回(9月30日アップ)の、写真#05がこれに該当すると思われました。この写真を#11として、再掲いたしました。

#11、名所江戸百景「広尾ふる川」のイメージ再現の一枚
$11広尾ふる川今昔比較(天現橋).jpg
これは天現寺橋から西方を望んだ写真です。この写真では、川と橋の要素に加え、向かって左の岸は、木々に覆われ、視線は開けていて遠くまで気持ち良く見通すことが出来ます。この、一枚は、イメージの再現の一枚として貴重な写真です。
 この写真は、天現寺橋上から、西、回生橋(注)方向を写した写真です。
 この景色であれば、名所とは、いえませんが、しばし、佇んでこの景色を楽しむということは可能です。

注)回生橋:天現寺橋の西方40mに架かっている橋。明治通りから、広尾病院の北駐車場に通ずる橋です。

本シリーズでは、広重の名所江戸百景の絵を、広重と同じ視点で写真を撮影、その今昔を比較すると言う事をやっています。一枚の写真で、広重の絵を再現するのが理想ですが、これが出来るのはめったにありません。
今回の広尾ふる川では、次に示した部分は、一枚の写真で示すのは出来ませんでした。

#12、名所江戸百景広尾ふる川・ヨシズ張りの茶屋と狐鰻
$12広重広尾ふる川左部分の拡大.jpg
広尾ふる川」の浮世絵原図と比べると、川と橋は撮影出来ました。しかし、この位置からは、原図左端に画かれたヨシズ張りの茶屋と狐鰻に相当する部分は、川岸の建物に遮られて見えませんでした。

#13、広尾ふる川四ノ橋近辺の地図の今昔
$13広尾ふる川近辺の新旧地図.jpg
ヨシズ張りの茶屋に相当する場所と狐鰻に相当する場所が両方撮影できる位置からの写真を#14に示しました。

#14、四の橋南詰め(白金1丁目及び2丁目)近辺(パノラマ合成写真)
$14白金2・3町目画像Ⅱ094B4.jpg
この近辺の今昔の地図及び名所江戸百景と現在の写真を見比べると、昔のヨシズ張りの茶屋は、画面中央の自転車がおいてある所に、また、狐鰻は、画面左側の田島町会館のところにあったと推定出来ました。

#15、旧田島町にあった「狐鰻」と現在の田島町会館
$15狐鰻の新旧.jpg
昔、狐鰻があったところは、現在田島町会館という建物が建っています。狐鰻のあったところの建物が、江戸期の地名「田島町」に因んだ会館名にしてあるのには、興味が惹かれました。

さらに、この位置からは、昔の広尾原は到底眺むことは困難でしたが、それに関しては、次回で話を進めることとします。
(続く)


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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その1B)  [広重・名所江戸百景]

アップ:2018年10月8日(月)

※今回は、現地取材内容に基づいた記事ではないので、「その1B」としました。

#13、名所江戸百景「広尾ふる川」(再掲)
#13広重名所江戸百景広尾ふる川.jpg
今回この地の取材は、手持ちの資料の「この絵は南麻布天現寺橋を渡った先にあった広尾原を描いていると考えられる。」という記述に従って、天現寺橋近辺の川沿いの写真を撮影してきました。
 自宅に戻り、広重が当時画いた地点を特定すべく、古地図で検討しました。人文社の「嘉永・慶応江戸切絵図」及び「明治の東京」で、天現寺橋を探しましたが、これらの地図では天現寺橋と明記された橋は見つかりませんでした。

#14、広尾ふる川の舞台「東京大絵図」(明治4年)
#14広尾ふる川近辺の古地図.jpg
上の地図で、①が天現寺、②が現在の天現寺橋が架かっている場所です。しかし、この位置には当時橋は架かっていませんでした。
天現寺の辺りで、③広野原を遠望し、手前に橋がある景色ということで、この時点で一応④の近辺からの景色を、画いたと考えました。(青矢印の方向を画いた?)
 ところが、ネットで広尾の昔の調べを進めているうちに、広重が50歳代のときに画いた「絵本江戸土産」という絵を見つけました。

#15、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
#15絵本江戸土産麻布古川相模殿橋広尾之原B.jpg
#13と#15の絵はそっくりで、同じ場所を画いたものと考えられました。
即ち、この二つの絵は、古川に架かっている相模殿橋の東側から相模殿橋と遠景として広尾原を画いたものということが判明しました。
※相模殿橋は、上の地図の⑨四ノハシのことで、広重は赤矢印の方向を画いたと考えられる。

 今回の取材では、現在の天現寺橋の周辺を取材しましたが、結果的に、大分的外れな取材だったことがわかりました。
 従って、早急に再取材し、改訂版をアップしたいと考えます。


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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その1) [広重・名所江戸百景]

取材:2018年9月5日(水)
アップ:2018年9月30日(日)

今月の初め、知り合いが、南麻布で夕方から、ヴァイオリン・リサイタルを行うということで、その前に、どこか広重の名所江戸百景の取材をしようと思いました。地図を見たところ、演奏会場のすぐそばに、名所江戸百景「広尾ふる川」の舞台となった場所があり、ここを取材することにしました。

#01、広重画名所江戸百景「広尾ふる川」(1856年)
%01広重名所江戸百景広尾ふる川.jpg
 まず、この「広尾ふる川」ですが、なんとも地味な絵です。名所江戸百景で採り上げられる風景は、著名な神社仏閣、花鳥風月で特徴のあるところ、謂れのある名木、伝説や物語の舞台となったところ等、なにか名所たる所以のある所です。
 しかし、この絵で特徴的なものは、川と橋及び画面左に料亭のようなものが見られるだけで、絵そのものから、名所江戸百景に選出された要素は見当たりません。
 但し、表題には示されていませんが、正面奥の丘状の部分は、「広尾の原」と言って、将軍の鷹狩り、または庶民の遊歩散策の場所として、「江戸名所図会」に採り上げられていることから、名所江戸百景でも採り上げたものと思われます。

#02、名所江戸百景「広尾ふる川」が描かれた場所近辺の地図
%02地図天現寺近辺地図.jpg
私が、参考にしている、名所江戸百景に関する種本(注1)には、この絵を描いた場所として、「南麻布天現寺橋を渡った先にあった広尾原を描いていると考えられる」とだけの記載で、描かれている橋の橋名も上流から描いたのか、下流から描いたのか等詳しい記載はありませんでした。
注1)広重の大江戸名所百景散歩、人文社、1996年

#03、「広尾ふる川」関連写真撮影場所
%03広尾ふる川撮影場所詳細.jpg
広重が画いた名所江戸百景と同一視点で写真を撮るというのが、本ブログの命題ですが、広重の江戸末期の視点がはっきりしないまま現場に行きました。従って、広重の視点の可能性のあるところを、全部撮影して来ました。
※図中④~⑫の地点は、以下の写真#04~#12の写真と対応します。

#04、広尾病院の北側にある橋から西方を望む
%04広尾病院近辺から西方を望む.jpg
広尾原は、広尾病院の西の方にあったと考えられるので、まずここから、西方を撮影しました。
画面向かって左は、広尾病院、右は岸ぎりぎりまで、高層の建物がびっしり建っています。

#05、天現寺橋から西方を望む
%05天現寺橋から西方を望む05B.jpg
見えている範囲は、#04とほぼ同じです。

#06、天現寺橋交差点(歩道橋上)から西方を望む
%06天現寺橋交差点(歩道橋)から西方を望む07B.jpg

広重の「広尾ふる川」は、広重得意の俯瞰描写で画かれています。広重の視点に幾分かでも近づけるため、歩道橋の上から、西方を撮影して見ました。

#07、天現寺橋交差点から南西方向を望む(Googleストリートビュー)
%07天現寺橋交差点から南西方向を望む07C.jpg
今までの写真では、建物等で、視線がさえぎられ、広尾原方向が見通せないので、ちょっと視点を変えて、遠景が見えるようにして見ました。
※但し、Googleストリートビューでの画像です。

#08、天現寺橋親柱(南東のもの)
%08天現寺橋南西親柱14B.jpg
その他、参考写真として撮影しました。

#09、「清流の復活」の石碑
%09天現寺橋清流の復活13B.jpg
天現寺橋の南東のところにある石碑です。
これに関しては、次回説明します。

#10、天現寺橋交差点全景
%10天現寺橋交差点34B.jpg


#11、天現寺
%11天現寺33D完.jpg
交差点名、及び橋の名前の元となったお寺です。

#12、亀屋橋から西方を望む
%12亀屋橋から西方を望む36C完.jpg
念のため、天現寺橋のかなり東方からも撮影して見ました。

以上、一通り、広重が画いたと思われる視点の候補はおさえました。
しかし、どこの場所が正解としても、いずれの写真も、両岸ぎりぎりまで、建物等が迫っており、広重の広尾ふる川の絵とは、大変かけ離れていました。
次回は、橋のたもとにある料亭の建物や広尾原について、および、清流の復活の碑等に関し、考察致します。
(続く)


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第26回、広重・名所江戸百景「鎧の渡し小網町」( 夏46景)(その3)(完) [広重・名所江戸百景]

 名所江戸百景「鎧の渡し小網町」で広重の描いた視点と同視点から見た景色を写真に収めるというのが、本シリーズのテーマです。前回から、若干間が空いてしまったので、その1、その2を振り返って見ます。

#10、名所江戸百景「鎧の渡し小網町」広重の視点の解析
$10鎧の渡し広重の視点の解析完.jpg
#10の中央の絵及び右側の写真(ストリートビュー)はどちらも、小網町側から旧松平家の屋敷、または現東京証券取引所方向を見たものです。
 結局、この絵と写真の解析で、広重は、松平家の東の石垣の外、日本橋川・川岸の百本杭のところから描いたという結論に達しました。ただ、実際にこの場所に舟を浮かべて描いたというより、広重の得意とする、ありえない場所から想像で書いたものと思われます。

#11、広重の視点の解析(やや上流からの画像)
$11鎧の渡し広重の視点の検証5.jpg
広重の視点の解析で、#10に対し、やや上流から且つ、やや拡大した画像上に、桟橋に立つ女性と広重を合成した画像を作ってみました。
 きたろうが、この場所から写真を撮るということは、舟をチャーターしなければならず、きたろうには負担が大きすぎるので断念しました。と、ここで終わってしまったのでは、もやもや感が残るので、すでに登場していますが、Googleのストリートビューを利用し、現代版「鎧の渡し小網町」の視点を再現して見ました。

#12、「鎧の渡し小網町」広重の視点の再現
$12鎧の渡し小網町広重の視点ストリートビューで再現.jpg
この写真で、丁度、橋の欄干が水面で反射し虚像を作っているところ辺りが、旧鎧の渡しの舟の航路になっていると思われます。
 本シリーズでの広重の視点の再現を、きたろうの実写写真で再現するというのがモットーですが、今回は、ストリートビューの利用を余儀なくされました。
ここで、余興的に、広重の描いた、桟橋に立つ女性を、この写真の中に登場させて見ました。

#13、現代版鎧の渡し小網町
$13鎧の渡し現代と江戸融合(完).jpg
ありえない景色の再現ですが、意外と違和感を感じませんでした。
 今回は、登場した女性も川の景色も、きたろうの実写ではありませんでしたが、次回は、何とか実写で、広重の視点での画像を再現したいと思っています。

END


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第26回、広重・名所江戸百景「鎧の渡し小網町」(夏46景)(その2) [広重・名所江戸百景]

取材:平成30年(2018)7月16日(月・祝)
アップ:同、8月19日(土)

その1では、「鎧の渡し小網町」を描いた広重の視点について疑問が沸いたと言う所で終了しましたが、それの続きです。
この#07の絵以外に、鎧の渡しを描いた絵がないか探したところ、なんと広重は40歳代に、「江戸百景・よろいの渡し」という絵を描いていることが分かりました。

#08、広重画「江戸百景・よろいの渡し」(1840年頃)
#08鎧の渡し広重の視点の検証2.jpg
この絵は、鎧の渡しを小網町側から、茅場町の桟橋方向を描いたものです。この絵を見ると、松平の屋敷の東の角のすぐ下流のところに桟橋があった様子がよく分かります。また、この絵の中で名所江戸百景の鎧の渡し小網町を描いた広重の視点及び視線を作図すると、赤の矢印のように推定されます。即ち、広重は、屋敷の石垣の護岸のための百本杭の辺りの川の中から描いたということになります。
この、#08の絵を写真で再現出来ないものか?ということで、Google Mapのストリートビューを探したところ、この地点を日本橋川を航行する船からのストリートビューがありました。

#09、鎧の渡しの茅場町側桟橋跡(ストリートビュー)
#09鎧の渡し広重の視点の解析.jpg
#02の地図及び#08の絵と#09ストリートビューの良く見比べると、当時の松平の屋敷と桟橋と日本橋川の関係は、その名残を今でも日本橋川の護岸のコンクリートの壁の形状に残しているのがわかります。
さて、「鎧の渡し小網町」の広重のありえない視点ですが、これは、広重では、特に珍しいことではありません。名所江戸百景の中には、高度10数mから数百mからの俯瞰で描かれたものが多数あります。広重は、ありえない位置から見た風景を描くのは、大変得意な画家で、恐らく、「鎧の渡し小網町」の、整列した倉庫群、日本橋川を行きかう舟、桟橋にたたずむ町娘を一枚の絵にしたとき、もっとも美しく描ける構図のために、どこから描くかとなったときの視点は、たまたま百本杭の前だったということと推定されます。
(その3に続く)
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第26回、広重・名所江戸百景「鎧の渡し小網町」(夏46景)(その1) [広重・名所江戸百景]

取材:平成30年(2018)7月16日(月・祝)
アップ:同、8月16日(木)

「鎧の渡し小網町」を取材した日は、近くにある、東京証券会館で行われる邦楽のコンクールを聞きに行くのを目的にしていました。そして、広重の「名所江戸百景・鎧の渡し小網町」のことは、家を出るときは全く念頭にありませんでした。しかし、会場近くに差し掛かったとき、この辺が、鎧の渡し小網町の舞台であるのを思い出し、急遽、邦楽コンクールの中学生の部の鑑賞を取りやめ、名所江戸百景の取材をすることにしました。
そんな訳で、デジカメも持っていなかったので、スマホで写真を撮ってきました。

#01、広重「名所江戸百景・鎧の渡し小網町(夏46景)」
#01広重鎧の渡し小網町夏46景.jpg
この絵は、1857年広重最晩年61歳のときに画かれました。前年(1856)には、ハリスが来航、また、翌年(1858)から安政の大獄が始まるという、激動の時代の幕開け的な時代背景の下で画かれたものです。
この絵は、夏の「鎧の渡し」を描いたものです。画面には、日本橋川を行きかう荷を満載にした複数の小舟、対岸小網町の倉庫群、空を舞う4羽の燕、桟橋で舟を待つ町娘等が書き込まれています。

#02、鎧橋(鎧の渡し)付近の今昔(地図対比)
#02鎧橋付近の今昔.jpg
この辺りは、 武家屋敷、下級武士の組屋敷、各種問屋の蔵などが混在していた地域で、日本橋川の水運に根ざした商業が盛んなところでし
#03、鎧の渡し小網町の今昔比較(画像対比)
#03鎧の渡し小網町今昔対比.jpg
さて、鎧の渡し小網町の絵の現代版写真の撮影ですが、広重の絵は、兜町から鎧の渡しをはさんで対岸の小網町の倉庫群を、上流から下流方向に斜めに描いたものです。
当日、鎧橋から上流方向及び下流方向数枚の写真を撮影し、この絵に一番合致するものを、#03の右側に示しました。
この写真の、撮影ポイントは#02の地図の③で撮影方向は南東(黄矢印)方向です。
※お詫び&訂正、前回8月16日アップ時、#02の地図に③の記載が漏れていました。今回(8月19日)③を記載したものを掲載し直しました。
(蛇足ですが、スマホの画質は、コンパクトデジカメの画質と同等またはそれ以上の画質を持っていました)

#03の、今昔対比で、メインの鎧の渡しは、鎧橋に変りました。橋の欄干の一部が画面左下に見えています。
対岸の、倉庫群は、現在では、花王グループの関連企業の建物に変っています。写真、画面奥の緑色の橋桁の橋は、茅場橋です。
残念ながら、燕及び町娘の姿は見当たりませんでした。

#04、鎧橋南詰めから鎧橋を望む
#04鎧橋南詰めから鎧橋を望む13時39分.jpg
鎧橋南詰め(西側)に、中央区教育委員会の史跡表示板があります。

#05、「鎧の渡し」史跡表示板
#05鎧の渡し表示板13時40分.jpg
ここには、鎧の渡しの歴史的なことが書かれています。
その文をそっくり下記に示します。

  鎧の渡し跡

所在地中央区日本橋小網町八・九番
日本橋茅場町一丁目一番・日本橋兜町一番

 鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝七年(一六七九)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。

 伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(一○四六~五三)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。

 この渡しは、明治五年{一八七二)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会』などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。        

                     
 縁日に           
   買うてぞ帰る         
     おもだかも        
 逆さにうつる          
   鎧のわたし          
        和朝亭国盛      

 平成二十年三月     中央区教育委員会

******************

また、この表示板に、「江戸名所図会・鎧の渡し」も掲載されています。これを、拡大したものを次に示しました。

#06、江戸名所図会・鎧の渡し
#06鎧の渡し江戸名所図会13時40分.jpg
この絵は、広重の絵と同様、兜町(茅場町)側から、対岸小網町を描いたものです。広重の絵は例えば倉庫群など様式的に描かれているのに対し、江戸名所図絵では、蔵の屋号も描かれているいる等写実的といえます。

さて、ここで、鎧の渡しを描いた広重の視点を考えて見ました。


まず、#06江戸名所図会の絵で、桟橋のヘリに広重の絵と同様に町娘に立ってもらい、それを斜め後方から描けば、広重の鎧の渡しの絵と同様な絵が描けるはずです。
(#07参照)

#07、鎧の渡し広重の視点の検証(1)
#07鎧の渡し広重の視点の検証1.jpg
広重の絵では、広重の視点と町娘は、概ね5~6mははなれているように見えます。
ところが、#07の絵では、桟橋の幅は2mにも満たないような狭い桟橋で、はたして、広重はどこから町娘及び鎧の渡しを描いたのだろうという疑問が沸きます。
(その2に続く)

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第25回(下)、広重・名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」(秋73景)その2 [広重・名所江戸百景]

今回は、前回「広重名所江戸百景・市中繁栄七夕祭(その1)」の補足的な記事です。

#00、名所江戸百景・市中繁栄七夕祭(広重画)
%00広重市中繁栄七夕祭ブログ用圧縮.jpg
「市中繁栄七夕祭」は、京橋の広重の住居から、富士山を画面の中心において七夕祭り時の江戸の家並みを描いたものです。この絵の、現代版の写真での再現は、京橋の広重住居跡から、富士山を撮影することは困難でずっとあきらめていました。
前回の市中繁栄七夕祭は、銀座シックスからの眺望を、広重住居跡からの眺望の代替地として(注)、現代版「市中繁栄七夕祭」にしようと試みたものです。

注)現代版「名所江戸百景」の再現は、広重と全く同じ視点では不可能なケースが多々あります。その場合は、広重の実際の視点の近辺で、似たような代替地での再現を本シリーズでは行っています。ちなみに、市中繁栄七夕祭の広重の実際の視点と、代替地銀座シックスは、約1.2km離れていますが、両者の町並みの感じは、江戸時代も現在も良く似ていると考えられます。

◆市中繁栄七夕祭の視点
市中繁栄七夕祭は、広重の住居の2階(または物干し台)から見た、江戸の町並みとはるか遠くにある富士山を描いたものです。
当時、江戸のほとんどのところから、富士山は見えました。富士山を、自宅から眺めるため、自宅に物干し台を作ることが、一寸裕福な家の間で流行しました。

#01、広重の住居付近の切絵図
%01広重住居近辺切絵図(現在の交差点名入り)B.jpg
◆切絵図に画かれた広重の住居
 広重は、53歳から62歳で亡くなるまで、京橋の大鋸町というところに住んでいました。(1849~1858)(注)
最晩年の61歳(1857)のとき、市中繁栄七夕祭を描きました。
#01の切絵図に広重の住居が明示されています。御用絵師「狩野永徳」の屋敷の隣に住居を構えていました。
切絵図では、武家屋敷や神社仏閣については、その名前を明示していますが、一介の町絵師である、広重の住居が切絵図に明示されるということは、異例のことで、当時、広重の人気がいかに高かったかを物語っています。
注)この切絵図は、1863年版で、広重は既に亡くなっています。恐らく、二代目広重がそのまま住居を引き継いだものと思われます。
注)広重晩年の時代背景
広重が、京橋に住んでいた頃の日本は、1853年にペリーが来航し、広重が亡くなって2年後の1860には、「桜田門外の変」がおこるという、日本が激動に向いつつある正にその頃でした(名所江戸百景ではそのような雰囲気は全く見受けられないが・・・)

#02、広重住居跡周辺の地図(現在)
%02京橋YAHOO!地図B.jpg
切絵図に示された、広重の住居は、現在で言うと、中央区京橋一丁目9番地に相当します。
銀座シックスでの撮影後、この、広重住居跡を訪れました。そこは、現在工事中でした。「全国信用協同組合連合会新本部」のビルが建つとのことでした。

#03、広重住居跡・工事中1
%03広重住居跡①P013D.jpg


#04、広重住居跡・工事中2
%04広重住居跡②P016C.jpg
※画面中央の茶色の張り紙のようなものに注目

#05、広重住居跡表示板1(コピー=紙)
%05広重住居跡③P017B.jpg
その張り紙は、以前ここにあった、中央区教育委員会の「広重住居跡」を示す金属製の表示板のコピーでした。

#06、広重住居跡表示板2(金属製)
%06広重住居跡④P734C.jpg
以前(2014/5/6)撮影した中央区教育委員会の「広重住居跡」の表示板(金属製)。
 ここに、広重住居跡の表示板のコピーが貼ってあるということは、ここのビルが完成した暁には、また、広重住居跡の表示板が復活するということで理解しました。

#07、広重住居跡(過去の写真)
%07広重住居跡⑤P735B.jpg
広重住居跡の全体的な写真を、自身では撮影していなかったので、ネット上で探したところ、この写真が見つかったので、転載します。
過去のこのビルには、東証コンピューターシステムの総務部などが入っていました。

#08、広重住居跡から南南西方向を望む
%08広重住居跡から南南西方向の眺望P021B.jpg
参考まで、広重住居跡の前の道路から、道路の延長線方向(南南西)を撮影しました。地図#02に示したように、富士山の方向は「青矢印」の方向で、道路は赤矢印方向に伸びているので、ここから富士山を撮影するのは、ドローンでも使わない限り、不可能でした。

#09、宝町歩道橋から南南西方向を望む(昭和通)
%09宝町歩道橋からの眺望P023C.jpg
同様に、広重住居跡の近辺で、少しでも高いところから撮影して見ようということで、宝町歩道橋の上から南南西方向を撮影しましたが、やはりここから富士山が見える可能性はほぼゼロでした。
 このようなことで、広重住居跡から市中繁栄七夕祭の現代版の写真の撮影は諦め、銀座シックスからの写真で代用しようと目論んでいます。
END



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第25回(上)、広重・名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」(秋73景)その1 [広重・名所江戸百景]

2018年7月4日(水)取材
同7月8日アップ
題名改定:同7月13日(題名に(上)、(その1)を追加した)

ブラタモリトレース・二子玉川シリーズの途中ですが、急遽、七夕に関するブログをアップします。
 現在、12時を回ってしまいましたが、7月7日は七夕祭でした。
江戸時代にも、七夕祭りは行われ、約160年前、歌川広重も、「名所江戸百景」シリーズの中で、「市中繁栄七夕祭」を画いています(#01画面左)。この絵は、広重の住居の物干し台からの眺めを画いたとのこと。
 さて、例によって、広重と同一視点から写真を撮り、広重の絵と、現在の写真を比較するという試みをしました。

#01、広重画・市中繁栄七夕祭と銀座シックスから富士山方向の眺望
#01広重市中繁栄七夕祭新旧比較.jpg
広重の住居は、東京都中央区京橋1-9ということが判っています。
ところが、この近辺から、富士山を撮影することは困難で、この近辺で、一般人が、立ち入れる高い場所を探しました。銀座シックスの屋上が一般開放されているということで、あらかじめ撮影して来ました(7月4日)。
残念ながら、この日は、富士山は見えませんでした(#01画面右、但し、この写真の富士山は作図です)。
この、写真は、銀座シックス屋上の新橋寄りのところから、西南西方向を撮影したものです。

#02、銀座シックス屋上から南西方向の眺望
#02P1210002C.jpg
※青矢印のところに、富士山が見えるはずである。

銀座シックスから富士山の撮影は、大気がクリアーなときに、再度試みたいと思います。
END



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第23回、広重・名所江戸百景、「王子音無川堰捸(おとなしがわいせき)」(春19景)&第24回「王子滝の川」(秋88景) [広重・名所江戸百景]

2018年3月28日取材/4月20日アップ

「広重の名所江戸百景」は、きたろうSO-NETブログの中心的ブログですが、本テーマでのアップは3年振りです。(本テーマでのアップは、2015年4月29日「亀戸天神の藤」以来中断)

 さて、今年の花見は、広重が桜を画いた場所を訪問し現在の状況を撮影・記録することと致しました。
まず、平成30年3月28日、名所江戸百景の内、春19景「王子音無川堰捸(いせき)」の舞台となった王子駅近辺を訪問しました。
#01、広重・名所江戸百景、「王子音無川堰捸(おとなしがわいせき)」(春19景)
$01赤丸①広重王子音無川Dブログ用.jpg
音無川とは、石神井川の下流、王子神社の付近では、音無川と呼ばれていました。
 この辺りに堰(せき)が作られており、#01の絵のように滝が形成されていました。この滝は、大滝と呼ばれていました。この絵の左奥のもえぎ色の山は、飛鳥山です。
滝の、すぐ下にいる3人は、恐らく修行のために滝で身を清めていると思われます。下流の4人は、修行では無く、また別の目的で川の中に入っていると推定されます。

#02、地図1、(王子駅、飛鳥山、金剛寺、滝の川橋)
$02王子音無川滝野川MAP.jpg
この絵が画かれた場所ですが、地図1の①の場所から、西方を画いたものと思われます。その根拠は、この堰が、文献で王子神社の下あたりにあったということと、絵を見ると川が上流から下流にかけて右にカーブしているので、丁度この場所が該当するからです。

手持ちの、文献で、この大滝のイメージと一致する写真を#03の示しました。

#03、大滝のイメージに合致する古写真
$03滝野川古写真「古写真で見る 江戸から東京へ」より.jpg
但し、この写真の標題は「滝野川」(注)となっているので、この大滝ズバリかどうかははっきりしません。
注)滝野川・・・音無川の上流部は滝の川と称されています。

この絵と同じ、現在のビューポイントで撮影した写真を#04に示しました。

#04、王子駅・親水公園口から親水公園方向を望む
$04王子駅親水公園口からの眺めP308.jpg
この写真では両岸に建物が建っているのでわかりませんが、左手は飛鳥山、右奥が王子神社で、この絵の場所であるのは、ほぼ間違いないと思われます。この写真は、王子駅親水公園口を出たすぐのところから撮影しました(#05)。

#05、王子駅親水公園口
$05王子駅親水公園口P309.jpg
また、この場所を明治10年代に撮影したと思われる古写真を#06に掲載しました。

#06、王子の茶屋・明治10年代
$06王子の茶屋(古写真).jpg
北区は、この一帯を、親水公園として、昭和63年までに整備しました。

#07、現在の親水公園(地図1のポイント②)
$07青丸②王子親水公園P311.jpg
公園内は、花見客で賑わっていました。
親水公園と称している割には、水の流れはあまり見えません。
この事業の経緯を書いた説明板が、設置されていました。

#08、「音無親水公園」整備事業の説明板
$08音無川親水公園説明文P315.jpg

説明板の内容
音無親水公園
 音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれたことがわかります。
 「江戸名所花暦」「遊■雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台から眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
 こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北区は、この音無親水公園を整備しました。
         
     たきつせの絶えぬ流れの末遠く
         すむ水きよし 夕日さす影
               飛鳥山十二景のうち
                  滝野川夕照より
                
  昭和六十三年三月   東 京 都 北 区
注)■・・・判読不能

さらに、桜を求め、上流に向かいましたが、親水公園を過ぎると川の両岸に塀が設置されていて、川の水面が見えない状態が続きました。

#09、王子本町1-2付近(地図1、赤丸ポイントからの眺め)
$09王子本町1-2付近(ストリートビューより).jpg
※ストリービューの画像です。

#10、王子本町1-5付近(地図1ポイント③)
$10青丸③滝野川(王子本町1-5付近)P317.jpg
この辺りでやっと、川面に懸かる桜が見られるようになります。

#11、紅葉橋から金剛寺を望む(地図1ポイント④)
$11青丸④P323紅葉橋から金剛寺を望む.jpg
金剛寺は、通称紅葉寺と称され、この付近かかる橋も、もみじ橋と名づけられています。

#12、名所江戸百景「王子滝の川」(秋88景)
$12赤丸⑤広重王子滝の川原図.jpg
広重は、秋の景色として、この辺りを画きました。
石神井川の上流から下流方向を見た景色です。石神井川はこの辺では、滝の川と称されます。画面右の滝は、弁天の滝ですが、現在はありません。画面右上、朱色の建物が金剛寺です。

#13、金剛寺と桜(ア)(地図1ポイント⑥)
$13青丸⑥金剛寺の桜アP325.jpg
金剛寺の対岸(滝野川4-3)からの眺め。

#14、金剛寺と桜(イ)(地図1ポイント⑦)
$14青丸⑦金剛寺の桜イP326.jpg
金剛寺は秋の紅葉が有名であるが、春の桜も見事です。
今年は、桜の開花が早く、まだ3月28日というのに、桜はちりはじめており、川面が花筏状態になっていました。

#15、滝の川4-8付近から下流方向を望む
$15青丸⑧滝野川橋付近より下流方向P329.jpg
滝の川橋近くのポイント⑧からの眺め。石神井川もこの近辺では、滝の川と称されます。

#16、滝の川橋親柱
$16滝野川橋親柱P330.jpg


#17、滝の川橋から上流方向を望む
$17青丸⑨滝野川橋より上流方向P327.jpg
ここでUターンをして、次の桜の名所に向かいました。
(続く)

※お詫び
きたろうの、根気の無さで、前回の「ブラタモリトレース・神宮外苑」はその2で中断したままになっています。機会をみて、再開致しますのでご了承ください。

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第22回、広重・名所江戸百景/亀戸天神境内(夏65景) [広重・名所江戸百景]

<副題>亀戸天神藤まつり

2015年4月27日(月)取材

本ブログのメインテーマ、広重の「名所江戸百景」を、久しぶりにアップします。久しぶり過ぎて、前回(第21回)の、アップが何時なのか、ちょっと見た所、2012年5月でした。(おまけ程度に、記事にしたのは除く)
実に3年ぶりですが、本論に移ります。

藤・つつじの開花が連日報道されています。
きたろうは、近場の亀戸天神の藤を見に行こうと思い、ネットで調べると「25日過ぎが見頃」と出てました。土・日を避け、27日(月)に行きました。

#01、亀戸天神に向かう道。
#01亀戸天神・藤150427_120324_0.jpg
この通りの商店街は活気があります(十三間通商店街)。藤まつりのミニ垂幕で歓迎!

#02、
#02亀戸天神・藤150427_122012_0.jpg
亀戸天神「藤まつり」のポスターも処々に貼ってありました。

#03、亀戸天神入口(蔵前橋通り)
#03亀戸天神・藤150427_122056_0.jpg
JR亀戸駅から約900m、JR錦糸町駅から約1,000m

#04
#04亀戸天神・藤150427_122438_0.jpg


#05
#05亀戸天神・藤150427_122633_0.jpg
東京スカイツリーも間近に見えます。

#06
#06亀戸天神・藤150427_122822_0.jpg
白藤・・・これは棚仕立てでなく、鉢植えです。

#07、太鼓橋
#07亀戸天神・藤150427_122940_0.jpg
中央通路に、太鼓橋が2ツ架かっています。この橋は、南側の太鼓橋です。本体の手すりに加え、ステンレスの手すりが内側に併設されています。

#08
#08亀戸天神・藤150427_123020_0.jpg
太鼓橋の上からの眺望。


#09
#09亀戸天神・藤150427_123541_0.jpg


#10
#10亀戸天神・藤150427_123850_0.jpg
西通路側の藤。見頃(満開?)です(^O^)/

#11
#11亀戸天神・藤150427_123906_0.jpg
同上。樹齢は何年位なのだろう?

#12
#12亀戸天神・藤150427_124527_0.jpg
亀戸なので、亀もいます???

#13
#13亀戸天神・藤150427_124552_0.jpg
中央通路そばの藤。西側の藤とは、品種が違うようだ。
花の、下の方は、まだ開花していない。

#14
#14亀戸天神・藤150427_124837_0.jpg
同上。

#15
#15亀戸天神・藤150427_125106_0.jpg
同上。

#16
#16亀戸天神・藤150427_125210_0.jpg
天気が良く、日差しが強い。新緑が目にまぶしい。(気温23.7℃東京13時気象庁データ)

#17
#17亀戸天神・藤150427_125210_A.jpg
東側通路から、太鼓橋を望む。

#18、広重「名所江戸百景」の亀戸天神と現在
#18亀戸天神・藤150427_125210_X.jpg
前掲の写真(#17)の視点は、安政3年に歌川広重が同所で描いた視点と同一です。広重の描いた景色は159年前ですが、現在も、ほとんど変わっていません。但し、橋は木製から鉄筋コンクリート製に変っています。
(左の絵は歌川広重が安政3年(1856)に描いた、名所江戸百景シリーズの内「亀戸天神境内」)

#19、亀戸天神の駐車場について
#19亀戸天神・藤150427_125928_0.jpg
境内の東側に駐車場もありますが・・・

#20、亀戸天神の駐車場の案内板
#20亀戸天神・藤150427_125928_2.jpg
亀戸天神の駐車場は、一般観光客の駐車は禁止です。

#21、雨谷麻世さんのミニコンサート
#21亀戸天神・藤150427_130021_0.jpg
駐車場のところに、「藤まつり」の関連イベントのポスターが・・・何と、本日雨谷麻世さんのコンサートがあるとのこと・・・もうすぐ第2回目の開演です。ラッキー♪~これは聴いて行かなきゃ(^O^)/
(続く)
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