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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その2) [広重・名所江戸百景]

取材:2018年10月10日(水)
アップ:2018年10月24日(水)

前回(その1)は、「広尾ふる川」を画いた場所が天現寺付近と考え、この近辺を取材しました。また、画かれた橋は、何橋か確証のないまま、漠然と天現寺橋であると考え、前回は、天現寺橋近辺を取材しました。
 ところが、その後、#01の右に示した、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵をネット上で発見し、この絵は天現寺橋より約800m下流の四之橋(しのはし)付近から画かれた絵であることが判りました。
 この絵は、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵で、広重が名所江戸百景を画いた6年前54歳のときに画いた絵です。この表題に書いてある橋「相模殿橋」とは、古地図にも明記されているように、「四之橋」のことで、この橋名は、現在もそのまま残っています。

#01、名所江戸百景「広尾ふる川」と絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
$01広尾ふる川と麻布古川相模殿橋JPEG.jpg
二つの絵は、明らかに同一の場所をほぼ同一の視点から画いています。両方とも俯瞰描写で絵本江戸土産の方は、推定6mの高さから画かれています。名所江戸百景の方は、推定30mほどの高さから画かれています。
 絵本江戸土産の方は、実際にこの高さから見て画いたという可能性はありますが、名所江戸百景の方は、広重の得意とする「ありえない視点」からの想像(創造)の絵と考えられます。
 さて、この二つの絵で、古川にかかっている橋は、前述のとおり、四之橋です。画面左の料亭は、古地図に⑨と示したように、「狐鰻」という料亭です。橋と料亭の間によしず張りの茶屋があり、この通りは、結構人通りが盛んであったことを物語っています。
 料亭の、右側の屋根は、黒田甲斐守等の武士の屋敷の屋根と考えられます。さらに、その後方に広尾原が画かれています。
 この二つの絵は、同一の場所を画いているのにかかわらず、印象がかなり違います。特に川の両岸と広尾原の部分は、絵本江戸土産の方は、草が荒れた感じで生えているのに対し、名所江戸百景の方は、庭園の草地のように良く手入れされているように画かれています。また、石垣も絵本江戸土産の方は雑に積んであるのに対し名所江戸百景では形の整った石をきれいに積んでいるように画かれています。 これは、実際の景色がこのようになったのではなく、名所江戸百景の方は、写実性からやや脱却し、様式美の方向へ進んで行った広重の変化と見て取れます。このことは、前々回の「鎧の渡し小網町」でも同様なことが見られました。

#02、広重「広尾ふる川」の舞台(広域版)
$02広尾ふる川近辺の古地図(広域).jpg
 今回の取材も、#02の(イ)の地下鉄「広尾」駅で下車、①の天現寺付近を再取材し、さらに⑥光林(禅)寺、⑦、⑧、⑩四之橋付近へと歩を進めました。

#03、広重「広尾ふる川」の舞台(古地図・拡大版)
$03A05広尾ふる川近辺の古地図(拡大).jpg


#04、広重「広尾ふる川」の舞台(現在)
$04広尾ふる川近辺の現在の地図(拡大).jpg


#05、光林禅寺表札(駐車場)
$05南麻布光林寺Ⅱ065.jpg
光林寺(こうりんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。慈眼山光林寺。所在地は東京都港区南麻布四丁目11番25号。

#06、光林禅寺の山門
$06南麻布光林寺Ⅱ066C.jpg
取材日の一寸前(2018年9月30日)に、光林寺にて女優の樹木希林さんの葬儀が執り行われました。

#07、四の橋交差点
$07四の橋交差点Ⅱ074C.jpg
地図の⑦と⑩の中間辺りから、南側交差点を望む。

#08、四之橋(四の橋交差点側から望む)
$08四の橋北詰Ⅱ076.jpg
橋の表記は「四之橋」で、読み方は「しのはし」です。橋の北側すぐの明治通りの交差点名は「四の橋」交差点です。古地図では「四ノ橋」で、「相模殿橋トモ云」と記されています。これは、地図で⑦の位置に土屋相模守の下屋敷があったためにそう呼ばれました。
 広重の名所江戸百景「広尾ふる川」で画かれた橋は、まさにこの橋でした。

#09、四之橋下流から古川と四之橋を望む
$09広重広尾ふる川に相当する写真Ⅱ080C.jpg


#10、名所江戸百景「広尾ふる川」が画かれたと同一の現在の視点
$10広尾ふる川今昔比較(四の橋).jpg
この画像が、名所江戸百景「広尾ふる川」画かれた、視点に最も近い画像と思われます。
 広重の広尾ふる川の原画では、近景に木造の橋、ヨシズ張りの茶屋、評判の鰻屋が見られ、遠景に庶民が散策を楽しむ広尾原が広がっているという、江戸時代としてみれば、郊外の一観光スポットのような地域を画いた絵であります。
 それに、対し、この写真では、中心となるのは、コンクリート製の川の護岸の壁と上を覆う高速道路というなんとも都会の無機質な景色で、名所というには、程遠い画像でした。 
 しかし、この一枚は、広重の視点と同一の場所からの一枚で、押さえの写真として重要です。
ここで、これとは別に、この近辺で、「広尾ふる川」のイメージにより近い画像が無いかということで探して見ました。そうしたところ、本シリーズの前々回(9月30日アップ)の、写真#05がこれに該当すると思われました。この写真を#11として、再掲いたしました。

#11、名所江戸百景「広尾ふる川」のイメージ再現の一枚
$11広尾ふる川今昔比較(天現橋).jpg
これは天現寺橋から西方を望んだ写真です。この写真では、川と橋の要素に加え、向かって左の岸は、木々に覆われ、視線は開けていて遠くまで気持ち良く見通すことが出来ます。この、一枚は、イメージの再現の一枚として貴重な写真です。
 この写真は、天現寺橋上から、西、回生橋(注)方向を写した写真です。
 この景色であれば、名所とは、いえませんが、しばし、佇んでこの景色を楽しむということは可能です。

注)回生橋:天現寺橋の西方40mに架かっている橋。明治通りから、広尾病院の北駐車場に通ずる橋です。

本シリーズでは、広重の名所江戸百景の絵を、広重と同じ視点で写真を撮影、その今昔を比較すると言う事をやっています。一枚の写真で、広重の絵を再現するのが理想ですが、これが出来るのはめったにありません。
今回の広尾ふる川では、次に示した部分は、一枚の写真で示すのは出来ませんでした。

#12、名所江戸百景広尾ふる川・ヨシズ張りの茶屋と狐鰻
$12広重広尾ふる川左部分の拡大.jpg
広尾ふる川」の浮世絵原図と比べると、川と橋は撮影出来ました。しかし、この位置からは、原図左端に画かれたヨシズ張りの茶屋と狐鰻に相当する部分は、川岸の建物に遮られて見えませんでした。

#13、広尾ふる川四ノ橋近辺の地図の今昔
$13広尾ふる川近辺の新旧地図.jpg
ヨシズ張りの茶屋に相当する場所と狐鰻に相当する場所が両方撮影できる位置からの写真を#14に示しました。

#14、四の橋南詰め(白金1丁目及び2丁目)近辺(パノラマ合成写真)
$14白金2・3町目画像Ⅱ094B4.jpg
この近辺の今昔の地図及び名所江戸百景と現在の写真を見比べると、昔のヨシズ張りの茶屋は、画面中央の自転車がおいてある所に、また、狐鰻は、画面左側の田島町会館のところにあったと推定出来ました。

#15、旧田島町にあった「狐鰻」と現在の田島町会館
$15狐鰻の新旧.jpg
昔、狐鰻があったところは、現在田島町会館という建物が建っています。狐鰻のあったところの建物が、江戸期の地名「田島町」に因んだ会館名にしてあるのには、興味が惹かれました。

さらに、この位置からは、昔の広尾原は到底眺むことは困難でしたが、それに関しては、次回で話を進めることとします。
(続く)


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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その1B)  [広重・名所江戸百景]

アップ:2018年10月8日(月)

※今回は、現地取材内容に基づいた記事ではないので、「その1B」としました。

#13、名所江戸百景「広尾ふる川」(再掲)
#13広重名所江戸百景広尾ふる川.jpg
今回この地の取材は、手持ちの資料の「この絵は南麻布天現寺橋を渡った先にあった広尾原を描いていると考えられる。」という記述に従って、天現寺橋近辺の川沿いの写真を撮影してきました。
 自宅に戻り、広重が当時画いた地点を特定すべく、古地図で検討しました。人文社の「嘉永・慶応江戸切絵図」及び「明治の東京」で、天現寺橋を探しましたが、これらの地図では天現寺橋と明記された橋は見つかりませんでした。

#14、広尾ふる川の舞台「東京大絵図」(明治4年)
#14広尾ふる川近辺の古地図.jpg
上の地図で、①が天現寺、②が現在の天現寺橋が架かっている場所です。しかし、この位置には当時橋は架かっていませんでした。
天現寺の辺りで、③広野原を遠望し、手前に橋がある景色ということで、この時点で一応④の近辺からの景色を、画いたと考えました。(青矢印の方向を画いた?)
 ところが、ネットで広尾の昔の調べを進めているうちに、広重が50歳代のときに画いた「絵本江戸土産」という絵を見つけました。

#15、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
#15絵本江戸土産麻布古川相模殿橋広尾之原B.jpg
#13と#15の絵はそっくりで、同じ場所を画いたものと考えられました。
即ち、この二つの絵は、古川に架かっている相模殿橋の東側から相模殿橋と遠景として広尾原を画いたものということが判明しました。
※相模殿橋は、上の地図の⑨四ノハシのことで、広重は赤矢印の方向を画いたと考えられる。

 今回の取材では、現在の天現寺橋の周辺を取材しましたが、結果的に、大分的外れな取材だったことがわかりました。
 従って、早急に再取材し、改訂版をアップしたいと考えます。


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