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三浦友理枝さん&東京六人組佐倉公演コンサート・レポ(2019年7月28日14時~) [演奏会]

取材:2019/7/28
アップ:2019/8/6

佐倉市民音楽ホールから定期的に来る案内のハガキで、東京六人組さんが佐倉で公演するのを知り、早速チケットを購入しました。

#01、東京六人組佐倉公演のちらし
#01東京六人組佐倉公演ちらし.jpg
※チラシの東京六人組の写真(右下)は、ちらしのオリジナル写真でなく、別の写真のはめ込み合成です。(チラシの写真そのものではモアレ縞模様が強く出たため)

#02、佐倉市民音楽ホールからの案内のハガキ(2019年2月&4月)
#02佐倉市民音楽ホールからの案内ハガキ.jpg
東京六人組が「三浦友理枝×東京六人組」と表記されていましたが、東京六人組の表記法をかえたのかな~という程度の認識で見ていました。良く良く見たら、前半が三浦さんのソロ演奏、後半が東京六人組のアンサンブル演奏であることがわかりました。

#03、佐倉市民音楽ホール正面広場(開場4分前)
#03佐倉市民音楽ホール正面広場.jpg
前日の天気予報では熱帯低気圧の通過で、曇り~雨の予報でしたが、当日は晴れて暑くなりました(気温約30℃)。

#04、佐倉市民音楽ホール開場直後(13時34分)
#04佐倉市民音楽ホールロビー13時34分.jpg
客層は高齢者が中心で、男女比はほぼ1対1?と思われました。

#05、佐倉市民音楽ホール開演10分前(13時50分)
#05佐倉市民音楽ホール開演10分前.jpg
座席は、ほぼ満席、でした。三浦さんが、ここ数年来毎年公演しており(注)、佐倉での知名度が高いためと思われました。
(注:昨年はホール改修工事のため三浦さんの公演は無し)

#06、プログラム第一部、三浦友理枝さんピアノ・リサイタル(プログラム)
#06第一部三浦友理枝さんソロ演奏プログラム.jpg


#07、三浦友理枝さん(当日の終演後の記念撮影の写真より)
#07三浦友理枝さん(きとろうオリジナル).jpg
❖第1曲目(ノクターン第8番)演奏後の三浦さんのトーク
皆様こんにちは♪~
台風直撃との予報でしたが、それて良かったです。ここでの演奏は2年ぶりで、今年も演奏を要請されたので、いつも一緒に演奏している、東京六人組の演奏を提案したところ快諾頂き、二部で演奏致します。
次に演奏する曲は、題名のとおり、二つの曲が合体している曲で、元々はピアノとオーケストラのための曲ですが、近年は、ピアノ・ソロで演奏されることが多いです。大ポロネーズは、ショパンが若いときの作品でみずみずしく華やかな作品です。

❖第2曲目ショパン/アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調Op.22の演奏(感想)
真摯でしかも熱情ある演奏でした。盛大な拍手で三浦さんを讃えました。

❖アンコール曲の演奏
三浦さん「ありがとうございました。今の演奏で、息があがっています。若いときは、わ~~楽しいという感覚で弾けましたが、現在は、また一寸違う感覚で弾いています。
アンコールとして「プーランクの即興曲エディット・ビアフを讃えて」を演奏します。

#08、(ご参考)YouTubeより、三浦さんの演奏のお姿
#08三浦友理枝さん演奏のお姿Youtubeより.jpg
◇演奏者:三浦友理枝、川久保賜紀 、遠藤真理
◇演奏曲:亡き王女のためのパヴァーヌ
URL=https://www.youtube.com/watch?v=Az5jPUow0Wc
※亡き王女のためのパヴァーヌは第2部の東京六人組の演奏、第3曲目で演奏されました。

#09、第2部東京六人組の演奏プログラム
#09第2部東京六人組アンサンブル・プログラム.jpg
演奏曲は、2015年に発売した1枚目のCDからの曲で構成されていました。

#10、東京六人組の演奏中の画像(You Tubeより)
#10東京六人組演奏の画像YouTubeより.jpg
東京六人組は、木管五重奏にピアノが加わった編成です。
※写真は2017年11月6日ハクジュホールでの演奏YouTubeより(https://www.youtube.com/watch?v=yFgIBqm80_Y

❖1曲目は、プーランク/六重奏曲より第1楽章
軽快でスリリングな曲調で始まり、途中不思議な雰囲気のメロディが流れ、終盤再びアップテンポで見事な全楽器の競演と言った感じで終わります。

きたろうは、木管五重奏の演奏は、結構良く聴きに行っています。仮に木管五重奏の響きを林にたとえると、東京六人組は森の響きという感じです。
ピアノが加わると音の厚みがこうも違うのか!

§1曲目演奏の後、自己紹介&楽器紹介が行われました。
(以下、トーク内容とプロフィールをないまぜにして紹介致します)

#11、上野由恵(よしえ)さん(フルート)
(写真はきたろうオリジナル=終演後の記念写真より切り抜いたものです。)
#11上野由恵さん(きたろうオリジナル).jpg
<楽器紹介>フルートの楽器紹介で結構詳しい説明がありました。
駄洒落が得意とのこと。(意外でした)
<プロフィール>
東京藝術大学修士課程終了
第76回日本音楽コンクール第1位
第2回東京音楽コンクール第1位
アメリカ、フランスでの活動を経て、2018年夏に帰国。

#12、荒絵理子さん(オーボエ)
(写真はきたろうのオリジナル写真です。以下の#13~#15も同様です)
#12荒絵理子さん(きたろうオリジナル).jpg
<自己紹介>演奏者のなかで、唯一千葉県出身者です。この会場は、オーボエを吹き始めてすぐの頃、宮本文昭さんの演奏を聴いたという思い出があります。
楽器紹介では、一般的説明に加え、リードは自分で作らなくてはならず、これに、時間が取られるということが紹介されました。
<プロフィール>
東京音楽大学卒業
第73回日本音楽コンクール第1位
2009年4月より東京交響楽団主席オーボエ奏者

#13、福士マリ子さん(ファゴット)
#13福士マリ子さん(きたろうオリジナル).jpg
<楽器紹介>管楽器の中で一番低音を担当する楽器です。
<プロフィール>
東京藝術大学卒業
第27回日本管打楽器コンクールファゴット部門第1位
現在東京交響楽団主席ファゴット奏者

#14、金子平(たいら)さん(クラリネット)
#14金子平さん(きたろうオリジナル).jpg
彼の番になって、いきなり「ガーシュインのラプソディ・イン・ブルー」の冒頭部の演奏がありました。
そのあと「話が苦手なもので、演奏を以って自己紹介と致します」との説明がありました。
<楽器紹介>「リードはオーボエが二枚でクラネットは一枚です。その他はオーボエとほぼ同じです」という簡潔なものでした。
<プロフィール>
東京藝術大学を経て、独リューベック国立音楽大学で学び卒業
日本音楽コンクール1位
2009年から2012年までリューベック歌劇場管弦楽団でクラリネット奏者を務めた。
現在読売日本交響楽団主席クラリネット奏者

#15、福川伸陽(のぶあき)さん
#15福川伸陽さん(きたろうオリジナル).jpg

<楽器紹介>結構詳しい説明がありました。最後、「ホルンは、音が後ろに出るので、ホルン奏者は後ろ向きと評されることもありますが、ホルンの音はステージ奥の反響板に音をぶつけて聞かす、奥ゆかしい人間であると自負しております」という落ちがついていました。
<プロフィール>
武蔵野音楽大学中退後にスイスへ渡り、ブルーノ・シュナイダー、トーマス・ミュラー、ミヒャエル・ヘルツェン、ヘルマン・バウマンらの薫陶を受ける。
第77回日本音楽コンクール第1位
NHK交響楽団主席ホルン奏者

●この後3曲演奏がありました。
❖2曲目:デュカス(浦壁信二編曲)/魔法使いの弟子
❖3曲目:ラヴェル(磯部周平編曲)/亡き王女のためのパヴアーヌ
❖4曲目:ラヴェル(川島素晴編曲)/ボレロ
※これらの曲は、東京六人組の第1枚目に収録されている曲で、各々東京六人組のために編曲されたものです。
各曲のProgram Note的なもの及び聴いた感想は省略します。

●プログラム最後の曲演奏後、拍手なりやまずアンコールが演奏されるときに、三浦さんに一寸したハプニングがあり、その時に、上野さんが駄洒落が得意?であることが判明しました。

❖アンコール曲は「フランセ:恋人たちのたそがれより第3楽章」でした。
会場から、暖かい大きな拍手が送られ、16時ちょっと前に終演しました。

#16、サイン会(荒さんのサイン)
#16荒さんのサイン.jpg
東京六人組さんのCDは一通り持っているので、既に購入したCDを持参し、(二度目の)サインを頂きました(左上は2018年に、下のサインが今回いただいたもの)

#17、福士さんのサイン
#17TokyoSextet第1枚目アルバム.jpg
東京六人組の1枚目のアルバムを購入したとき福士さんのサインのみ、もらいそびれていたので、今回改めて頂きました。

#18、三浦さんのサイン
#18三浦友理枝さんのCDショパン12の練習曲と即興曲2006年10月収録.jpg
既購入のCDを持参しサインを頂きました。このCDにたまたま本日演奏された「華麗なる大ポロネーズ」が収録されていて、とても良い記念になりました。

#19、東京六人組さんの記念撮影1
#19東京六人組記念撮影1.jpg
サイン会終了後、記念撮影に応じて頂きました。
前列左より、上野由恵(よしえ)さん、荒絵理子さん、福士マリ子さん、三浦友理枝さん、後列左より、金子平(たいら)さん、福川伸陽(のぶあき)さん

#20、東京六人組さんの記念撮影2
#20京六人組記念撮影2.jpg
きたろうは、二枚目でポーズ(ピース)を要求しました。荒さんがピースで応えてくれました。

#21、アンコール曲の掲示
#21東京六人組佐倉公演アンコール曲の掲示.jpg
三浦友理枝さん、東京六人組さんのパーフクトな演奏と、サイン会、記念撮影と120パーセント楽しませて頂き、会場を後にしました。
END



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おかね塚(下) [きたろう散歩]

取材日、2019/05/26(日)
アップ日、2019/07/11(木)
3月6日、市川市押切12-31(前)の6差路にある史跡おかね塚を通りがかりに取材しました。そこには「行徳おかね塚の由来」という石碑がありましたが、それをてっきり「おかね塚」と誤認したまま前回ブログ・アップしてしまいました。
 今回、改めて、この史跡を取材しました。

#01、市川市押切の6差路の西端にあるおかね塚
#01行徳おかね塚2019年5月-001B.jpg


#02、石碑「行徳おかね塚の由来」
#02行徳おかね塚2019年5月-003.jpg
この石碑は、「ここに『おかね塚』が作られました。」という説明板ですが、「この一角のどこにおかね塚があるか」というようなことは書いてありませんでした。
この、由来碑の後方には、ブロック塀で囲われた中に、墓石や石仏がありました。
この取材の前に、WEBで若干調べたところ、「おかね塚は庚申塔」であるという記述が見られた。しかし、庚申塔がなんであるか良くわからないまま現地に行き、この一角にある、墓石、石仏を写真におさめました。

#03、石仏と複数の墓石
#03行徳おかね塚2019年5月-006.jpg


#04、墓所中央にある墓
#04行徳おかね塚2019年5月-007.jpg


#05、中央の墓は廣瀬家の墓
#05行徳おかね塚2019年5月-017.jpg


#06、廣瀬家の墓右後方の複数の墓石
#06行徳おかね塚2019年5月-020.jpg


#07、廣瀬家の墓左後方の複数の墓石
#07行徳おかね塚2019年5月-022.jpg


#08、墓所、左手前にある石仏
#08和行徳おかね塚2019年5月-009.jpg


#09、石仏頭部
#09行徳おかね塚2019年5月-011B.jpg


#10、石仏上半身
#10行徳おかね塚2019年5月-015B.jpg


#11、石仏下半身
#11行徳おかね塚2019年5月-013B.jpg

これらの石仏、墓石には、いろいろ文字が書いてあるので、判読を試みましたが、墓石(中央の墓石除く)は苔むして、全く文字が見えませんでした。石仏にも、いろいろ文字が書いてありましたが、不鮮明で、判読は即、断念しました。
さて、これらの、墓石、石仏のどれがおかね塚なのか?ということであるが、この由来碑によれば、おかねさんのために墓を建てたように読み取れるし、ネットの情報では、庚申塔であると言うことだし、さっぱり見当がつきませんでした。
 取材日の二日後の5月28日に、たまたま郷土史の講座があったので、講師の方に、これらの写真を提示しながら、お話を伺ったところ、この左手にある石仏が庚申塔で、おかね塚と呼ばれているということや、この由来碑にある粗朶とは製塩に使うための薪であること、また、碑文を書いた綿貫喜郎氏は、数年前にお亡くなりになったことなどを教示していただきました。
 ただ、きたろうが疑念をもった、この由来碑の文章の信憑性については、はっきりした見解は、示して頂けませんでした。
この後、ネット上で、やや詳しく検索して見ましたが、ネット上の情報は、自身で調べたという情報はなく、何らかの情報の孫引きで、もやもや感が残りました。
 6月14日、市川中央図書館に行き、綿貫喜郎氏、宮崎長蔵氏共著の「行徳物語」を当たったところ、第3章「今と昔」に「おかね塚とお経塚」という項目があり、おかね塚についての言及がありました。(この部分の文章は、末尾に掲載)
 由来碑を書いた綿貫喜郎氏(宮崎長蔵氏共著)の著書でも、この石仏が、おかねさんの朋輩がお金を出しあって建てたものというより、「地元の伝承としてこのようなことが伝わっている」というような書き方で、史実であるとの判断は避けているように感じました。

#12、おかね塚由来碑の背面
#12行徳おかね塚2019年5月-021.jpg


#13、おかね塚由来碑の背面の拡大
#13行徳おかね塚2019年5月-019.jpg


由来碑は、おかねさんの悲運を哀れんで供養してきた地元の方々の伝承を後世に伝えるため、地元の有志によって昭和51年6月に建てられました。
信憑性が疑問視されるような伝承にこんな立派な由来碑を作ってしまうという、有志の方々に感心せざるを得ませんでした。
本文END

宮崎長蔵・綿貫喜郎共著「行徳物語」※、第3章 今と昔、「おかね塚とお経塚」より
 ◆おかね塚とお経塚◆
 行徳には、江戸時代初期の石造物がかなり残されている。その中でも押切にある《おかね塚》と新井にある《お経塚》には、それぞれ伝説が結びつけられ、人びとに語り継がれてきた。
 押切には船だまりがあって、五大木とよばれる小さな漁船の溜り場となっていた。ここには江戸時代の中ごろから、製塩に使われる燃料の粗朶(薪)が上総方面から運ばれ、定期的に五大力船とよぶ荷物の輸送船が停泊するようになった。
 こうした船の船頭や、人夫のなかには、停泊中に江戸の吉原(遊郭街)まで遊びに行く者もいた。そんな者たちのひとりが、かねという遊女と親しくなり、ついに夫婦の約束を交わしてしまった。
 船頭との約束をかたく信じたかねは、年季が明けるとすぐ押切に来て、上総からたきぎを運んでくる船頭に会えるのを楽しみに、ひたすら持ちこがれていた。

 しかし、いつまで持ってもその船頭は現われなかった。かねは蓄えたお金もすっかりつかい果たしてしまったが、それでも船頭がやって来るのを諦めず、村人たちに物乞いしながら、船だまりにある松の木蔭で待ち続けた。だが、かねもそのうち疲れ果ててしまい、ついにその松の木の下で帰らぬ人となってしまった。

 このことを伝え聞いた吉原の遊女たち百余人は、かねの純情な気持ちを哀れみ、わずかずつの金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちも、この薄幸なかねのために花や線香を供え、これを《おかね塚》と名づけて今日まで供養を続けてきた。
 しかし、このように人びとに語り伝えられてきた《おかね塚》の碑だが、はたしてこれは、本当に遊女かねのために建てられたものだろうか?
 実は、この碑は、今から三百十数年前の寛文五年十月十五日に建てられたもので、押切部落の人たちによる庚申信仰のための庚申塔だったのである。
 舟形の光背に如来像を彫り出した実に立派な石像で、その下部周辺には百余名の名前が刻まれている。その名前も、片仮名で彫った女の名前が目立っているところから、おそらく遊女百余人の伝説が生まれてきたものだろう。とにかく、船頭と遊女にまつわる話が数ある中でも、悲恋に終わった純情な遊女かねのことは、強く村びとの心をとらえたできごとだったに違いない。それがいつしか、女性の名前がたくさん彫られた庚申塔と結びついて、今日まで供養されて来たものと思われる。
 真実はともかくとして、地下鉄東西線の出現とともに、行徳も新しく生まれ変わった今日では、もはや、この話を知る人も少なくなった。やがては人びとの心の中からも消え去る運命にあったが、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝え供養をしてきた人たちの心を後世に残そうと、このほど地元有志によって改めて「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建てられた。
※昭和52年10月15日初版発行、発行所 市川新聞社、発売元飯塚書房 東京都千代田区神田神保町

<再掲>郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
#05綿貫喜郎氏曽谷公民館にて.jpg


●訂正&補足
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
前回、「おかね塚(上)」で記述した「行徳おかね塚の由来」の10行目
『待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□』の□□部分は、「乞う」であることが判明しました。
また、碑文の末尾の署名が前回では、
「綿貫喜郎」となっていましたが、正しくは「綿貫喜郎誌」で、訂正いたします。


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きたろう散歩・おかね塚(1) [きたろう散歩]

取材日、2019/03/06(水)
アップ日、2019/06/24(月)

皆様、大変ご無沙汰しております。
このたび、千葉県市川市行徳地区(注)にある、「おかね塚」という、ちょっと変った名前の「塚」について、取材と調査をしましたので、アップします。
(注:現在、市川市行徳という地名はありません(市川市行徳駅前、市川市南行徳の地名はあるが)。概ね、旧東葛飾郡行徳町の範囲を、便宜上、行徳地区と呼称します。)
 この塚の存在を知ったきっかけは、行徳公民館の主催講座に出席するため、自転車で向かう際に、目標となる途中の目印がないかと探していたら、丁度自転車の経路で左折すべきところに「おかね塚」という史跡(的)なものがあるので、講座の前に立ち寄ったというのが、きっかけです。
 
#01、行徳公民館
#01行徳公民館.jpg
2019年3月6日撮影(撮影:江戸川きたろう)

#02、「おかね塚」、「行徳公民館」近辺の地図
#02おかね塚行徳公民館近辺地図.jpg
おかね塚は、市川市押切12-31(前)の6差路に建つ史跡で、Google Mapにも記載されています。

#03おかね塚?(説明表示石碑)
#03おかね塚の説明表示石碑.jpg
当初、この石碑が「おかね塚」と思い、この石碑を中心に写真を撮影しました。
行徳公民館で、講座を受講し、家に帰って、この碑文を読んでいたら、どうも、おかね塚そのものは、この石碑以外に、別に存在するようでした。

この石碑に書いてある文章(写真から解読)
◆行徳おかね塚の由来◆
行徳の浜は古来塩業を以って榮えし処。押切の地また然り。
浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を
運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る
者また少なしとせず。
 時に一船頭のしばしば此の地に來りて江戸吉原に遊びかね
と云える遊女と馴染む、船頭曰く年季を終えなば夫婦とな
らんと かね女喜びてその約を懐き歳を待つ、やがて季明
けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ。されど船頭
その姿を見せず。
 待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□
に至るもなお此の地に留る。船頭への恋慕の情きが
故なり。 遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。
 伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。
 噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の
篤きこと実に美なる哉。聞く者皆涙せざるはなし。里人の香
華を供えておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知
る人ぞ少なし。
 茲(ここ)に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ
る由来を誌して後世に伝えんとする者也。  綿貫喜朗
   昭和五十一年六月吉日
注)□□・・・文字が風化により不鮮明で、解読できず。

最初、#03の写真を画像処理して文字が読めるような写真にならないかと試みましたが、このもくろみは果たせず、写真を拡大し、文章を解読した結果のテキスト文字(縦書き)を白黒反転し、石碑の写真と合成して、擬似的に、このもくろみを達成しました。

#04、おかね塚説明碑・文章レタッチ合成版
#04おかね塚の説明表示石碑(文章レタッチ合成版).jpg
表示された文章は、合成です(レタッチ:江戸川きたろう)

さて、この石碑の文章を読んで、率直のところ、「本当かな?」という思いがしました。
前半の部分は、実際にあったこととしても違和感はありません。
しかし、後半の「伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。」との一節は、こんなことがありえるだろうか?という感想でした。
また、ここの一節で、おかね塚というのは、このときに建てられたという墓のことを指しているのではないかと気付きました。
この、碑文を書いた「綿貫喜郎」氏の名前には、こころあたりがありました。
郷土史研究家で、この方の講演を二度程聴いた記憶があり、自身の写真ファイルを調べたところ、ご本人を撮影した画像がありました。

#05、郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
#05綿貫喜郎氏曽谷公民館にて.jpg
注)綿貫喜郎氏の画像をWEB上で検索したところ、何枚かヒットしましたが、その画像(人物)は、綿貫氏に関連した方の画像で、ご本人のものではありませんので、ご注意ください。
綿貫喜郎氏は、残念ながら、数年前にお亡くなりになったそうです。

さて、それでは、「おかね塚」そのものはどれなのか?ということになりますが、おかね塚の説明石碑の後ろ側に、墓が並んでおり、この中のひとつがおかね塚と推定されました。しかし、この日は、墓の部分は、詳しく写真を撮っていなかったので、これ以上の探求は出来ず、再度取材を行うこととしました。
(続く)


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神田祭り・神輿宮入見物記(2019)-(下) [散歩会]

2019/5/12(日) 取材
2019/5/19(日) アップ

前回(見物記・上)、「内神田鎌倉町町会」の宮入・参拝からの続きです。

#10、神輿退出(1)14時41分
&10神田祭2019-090.jpg
二礼二拍手一礼の参拝が終了後、担ぎ手は女性にかわり境内からの退出モードに入ります。

#11、神輿退出(2)
&11神田祭2019-097.jpg
神輿は、退出に向け、反時計回りに回転中。

#12、神輿退出(3)
&12神田祭2019-117.jpg
神輿は、ほぼ90度回転しました。この後、180度回転し西出口から退出します。

#13~16、「淡路二丁目町会」の神輿(15時04分)
&13神田祭2019-214.jpg

#14
&14神田祭2019-234.jpg

#15
&15神田祭2019-236.jpg

#16
&16神田祭2019-243.jpg

#17、神田祭太鼓フェスティバル(15時17分)
&17神田祭2019-262.jpg
「明神和太鼓 明輪会」の演奏です。
(この日太鼓フェスティバルは14時30分?から15時30分までで、 明輪会は最後の出演でした。)

#18、須田町中部町会神輿①15時38分
&18神田祭2019-289.jpg
15時30分に甘酒「天野屋」前で、同行メンバーとの再集合のため境内から降りてきたところ、たまたま「須田町中部町会の神輿」が、入場して来るところに遭遇しました。
なんと、担ぎ手は全員女性でした。

#19~23、須田町中部町会神輿
&19神田祭2019-298.jpg

#20
&20神田祭2019-307.jpg

#21
&21神田祭2019-309.jpg

#22
&22神田祭2019-320.jpg
神輿一行は、はなやかに、隋神門へ進んで行きました。

#23
&23神田祭2019-335.jpg
宮入は、神田祭で一番盛り上がる場面で、見物している我々も結構興奮します。
このあと、本日の第二のイベント(飲み会)会場にむかいました。

END

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神田祭り・神輿宮入見物記(2019)-上 [散歩会]

神田祭り(本祭り)は、2年毎に開催されます。きたろうは、4年ぶりに、神田祭り宮入を見物して来ました。
(前回の「見物記」は2015/5/10取材)

#01、子供神輿(鳥居の下:13時57分)
&01神田祭2019-001.jpg
子供神輿は、ほとんどの町会で所有しています。しかし、宮入に参加するのは、限られています。
宮入の前に、神田明神の鳥居の下で待機します。

#02、子供神輿入場(13時58分)
&02神田祭2019-018.jpg
ここから、坂を登って、まず、隋神門を目指します。
(周りの大人達の掛け声は大きいですが、子供達の声はほとんど聞こえませんでした。)

#03、「将門塚保存会」の一行に出会う
&03神田祭2019-019.jpg
「神輿の宮入」というイベントは、神田神社(明神)の拝殿前で行われます。
鳥居から参道を、まっすぐ北へ登っていけば拝殿前に行けますが、このルートは、神輿が通るルートで、祭り見物の人であふれかえっているので、我々は、西側をぐるっと周って(宮本公園の方から)拝殿前へアプローチしました。
その途中で「将門塚保存会」の一行と出会いました。将門は、神田神社が祀っている神様の一柱です。
この坂は神田神社から、西に下る道なので、この一行の方々は、神田神社にお参りして帰るところと思われます。

#04、神輿宮入(1)14時32分
&04神田祭2019-051.jpg
境内へ到着したのは、14時20分頃で、この神輿の一組前の神輿が、宮入・参拝を行っていました。
これは、次の組「内神田鎌倉町」町会の神輿です(14時32分)。まず、前の神輿が退出すると、拝殿の前を広く空けます。
※以下数枚に渡り、「神輿宮入→参拝→退出」の流れを、画像で示します。

#05、神輿宮入(2)
&05神田祭2019-061.jpg
次に、神輿一行の、先頭の提灯(?)が、進みます。

#06、神輿宮入(3)
&06神田祭2019-065.jpg
神輿は、境内の東側から、拝殿の正面へ移動、そこから、元気一杯・掛け声勇ましく(但しゆっくりと)拝殿へ進みます。

#07、神輿宮入(4)
&07神田祭2019-071.jpg
掛け声勇ましく、進んで行きます。

#08、神輿宮入(5)
&08神田祭2019-061.jpg
拝殿の直前まで来ると、神輿は一旦前進をやめ、足踏み状態になります。
ついで、左端の、拍子木を持ったリーダーの指示に従って、神輿は前進→後進を何度か繰り返します。

#09、神輿宮入(6)
&09神田祭2019-089.jpg
2~3度、前進・後進を繰り返した後、神輿を持ち上げ、担ぐのやめ台の上へ置きます。
この後、神輿の一行は神官から、お払いを受け、次いで参拝を行います(二礼二拍手一礼)。(お払いと参拝の画像はありません)

~続く~
タグ:神田祭 将門
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2019年年頭のごあいさつ

 あけましておめでとうございます(*^_^*)

皆様のご多幸とご健康をお祈りいたします

本年も宜しくお願いします

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ブラタモリトレース・仙台杜の都の秘密(宮城刑務所)編 [散歩会]

 最近の数年間、仙台に帰省した折に開催していたブラタモリトレース(タモリさんさんが歩いた跡を辿る散歩会)を開催してきました。
 今回は、ブラタモリ「仙台・杜の都の秘密」編の中の「宮城刑務所」の部分を辿ることにしました。
宮城刑務所はその昔、伊達政宗が晩年をすごした屋敷があったところです。幕府には、ここの屋敷は、正宗が晩年を過ごす隠居のための屋敷という名目で建設の許可を申請しました。しかし、その実態は、若林城という立派なお城だったのです。その中に、臥龍梅(がりゅうばい又はがりょうばい)と蟠龍(はんりゅう)の松という名木があり、「杜の都」編として取り上げられたのです。

#00、宮城刑務所内の臥龍梅
%17ブラタモリ平270718-122B.jpg
NHKのブラタモリより引用(以下、青い枠で囲った画像は、NHK・TVの画像です。但し、アナログVTRでの録画画像のため不鮮明ですのでご了承ください。
           
 タモリさんは、NHKの番組の取材ということで、宮城刑務所内の見学&ロケが出来ますが、我々一般人は、刑務所内へ入るということはあきらめていました。
ところが、昨年秋に、一般人でも、毎年10月に開催される、刑務所の矯正展の時なら刑務所内の見学が出来るということを仙台在住の方が教えてくれました。そこで、今年の夏ごろから、Google Alertで「宮城刑務所」「矯正展」のキーワードで情報アンテナを張っていましたが、9月半ばになっても、ネットからの情報は得られなかったため、宮城刑務所に電話して問い合わせたところ、「今年は、11月4日(日)開催で、所謂・刑務所の塀の中の見学は、午前9時30分から受け付ける」との情報を得ました。その他、ネットのブログで、「矯正展では、受刑者が作った家具・工芸品の販売の他各種イベントや刑務所の食事の試食もある」ということはわかりました(但し2015年矯正展の情報(※))。その後も、ネットでの情報収集を続けましたが、有力な情報は得られず、宮城刑務所は、矯正展のネットへの情報発信に関しては消極的と思われました。  さて、最低限、日時がわかれば、いつものように、メンバーを募ることは出来るので、中学の同級生を対象に募集を募ったところ6名の参加者が集まりました。 ※「はかたっこのブログ」さん・2015年開催の矯正展の訪問レポによる。
    
#01、宮城刑務所矯正展(2018)宮城刑務所正門
#01宮城刑務所02B.jpg
ブラタモリのロケで、タモリさん一行もここから入場しました。但し、そのときは大扉は閉まっており、タモリさん一行は、右側の小扉から入場していました。 我々総勢7名の散歩会メンバーは、丁度AM10時に、門の中に入りました。
      
#02、宮城刑務所近辺の地図と宮城刑務所への交通案内
#02宮城刑務所03C3.jpg
宮城刑務所の住所は「仙台市若林区古城2丁目3-1」です。宮城刑務所は、伊達政宗が晩年を過ごした、「若林城」の跡地に作られたもので、ここの住所はその由緒あるお城の名前をそのまま踏襲しているということになります。 また、刑務所へのアクセスは、公共交通機関はバスということになりますが、駐車場があり車でのアクセスも可能です。 ※図の中に、公共交通機関のアクセス詳細を書きましたが、ブログ末にもテキスト形式で、掲載します。
      
#03、利府太鼓演奏
#03宮城刑務所03C.jpg
太鼓の音は、会場外でも良く聞こえていました。黄色のアーチ状のゲートをくぐると、正面左手に中央ステージがあり、そこで太鼓の演奏がありましたが、ちょうど終了まぎわでしたので、素通りし、「塀の中の見学」受付場所へ向かいました。
    
#04、宮城刑務所施設見学受付場所
#04宮城刑務所04C.jpg
所謂塀の中の見学の受付場所には、すでに50人以上の方が集まっていてその後も列がどんどん伸びていて、関心の高さが現れていました。 ※「塀の中の見学」のことは、主催者は「施設見学」と称しているので、本ブログでも以下施設見学と記述します。 ここで、ビニール袋が渡され、携帯電話、カメラ、タバコ、ライターを袋の中に入れ、口を縛るよう指示がありました。つまり、施設見学中は残念ながら、撮影禁止ということです。そういえば、ブラタモリでは、塀の中の取材が出来ることになったことを、「特別に撮影許可が!!」と大きなテロップでアピールしていました。荷物検査があると思っていましたが、それはありませんでした。  前方の門から、1グループ20人くらいずつ入り、刑務官2名の方に案内されました。今回施設見学に訪れた一般人は、待っているいる間、全く緊張感は無く、和やかな雰囲気で、入場を待っていました。 入場の際、刑務官から、施設見学中は、グループから離れないよう、厳しく注意を受けました。 ここから門の中の施設見学は撮影禁止なので、以下ブラタモリのTV画面を掲載します。
     
#05、タモリさん一行塀の中へ入場
#05ブラタモリ平270718-106B.jpg
タモリさん一行メンバーは、タモリさん、桑子アナとブラタモリ案内人・仙台市教育委員会の木村さんです。宮城刑務所の刑務官(庶務課長)の先導で、塀の中に入っていきました。タモリさんはいつものブラタモリでは見られないような緊張した表情で入っていきました。
     
#06、07、蟠龍(はんりょう)の松
%06ブラタモリ平270718-108B.jpg
%07ブラタモリ平270718-107B.jpg
番組のナレーションでも、画面に書いてある「幹の長さ36m、樹齢360年以上」の解説はありませんでした。 我々の施設見学では、見学の最後に、この松の解説がありました。今でも、日々、幹は伸びているとの事でした。
     
#08、城の土塁跡
%08ブラタモリ平270718-110B.jpg
松の後方に、土の高まりがありますが、これは、城の土塁の跡であると木村さんの解説がありました。
     
#09、松の幹の先端と土塁のEND部
%09ブラタモリ平270718-111B.jpg
お城の時代は、この土塁の左側から、城の中心に入っていきました。現在も、同じ経路で、施設の中心に入っていきました。
     
#10、出丸に向かう、タモリさん一行
%10ブラタモリ平270718-051B.jpg
土塁の上・塀のすぐ内側の通路を、出丸(※)に向かって進んで行きました。ここで、桑子アナが「(ここの)高さは何m位なのですか?」という素朴な疑問を刑務官にぶつけたところ、「警備上の問題から答えられない」とのことでした。 また、#10の画面で、塀の上部に”ぼかし”が施されていますが、この部分には、電線が張られていました。このことも、秘匿事項のようなので、きたろうは目撃してきましたが、その詳細については言及致しません。 ※出丸・・・本城から張り出した形に築かれた小城(デジタル大辞泉)
    
#11、旧若林城出丸部分
%11ブラタモリ平270718-115B.jpg
お城の特徴的な「出丸」部分がそのまま残っていました。 #02の地図の宮城刑務所の北東部分。特徴的な出っ張りが、地図でも確認できます。 (矯正展の施設見学で、ここはコースに入っていませんでした。)
    
#12、タモリさん一行移動中
%12ブラタモリ平270718-055B.jpg
タモリさん一行移動中のシーンです。我々の施設見学でここは通らなかったと思いますが、この映像は、刑務所内の建物の典型的な様子なので掲載しました。刑務所内の建物は、窓に鉄格子が張られているのを除けば、極々一般的な工場の建物のような感じでした。
    
#13、刑務所内の工場棟
%13ブラタモリ平270718-118C.jpg
渡り廊下の前方約20mで右側に延びている棟が工場棟です。番組で工場棟内の映像はありませんでしたが、我々は、中に案内されました。工場棟内は、木工場の様相を呈し、いろいろな木工加工機、材料、半製品、完成品等が整然と並んでいました。
     
#14、臥龍梅(朝鮮梅)
%14ブラタモリ平270718-119C.jpg
宮城刑務所の一番奥にある、今回のブラタモリ(仙台・杜の都編)の目玉となる木、臥龍梅(がりゅうばい)です。朝鮮出兵のとき、正宗が、母親に見せたいために、この木を持ち帰ったとの事。樹齢は諸説あり、220年とも360年とも言われています。龍が寝そべっているような形にみえるためこの名が付きました。
    
#15、同上
%15ブラタモリ平270718-120C.jpg
タモリさん:「よっぽど気に入ったんでしょうね」 この木は、最初の梅に接ぎ木したもので二代目で、臥竜梅として国内最大のものとして、国の天然記念物に指定されています。 刑務官:「刑務所の中にある天然記念物というのは私が知るかぎりでは、この宮城刑務所刑務所にある臥龍梅だけだと思います。」
     
#16、臥龍梅、春花が満開のときの写真
%16゙ラタモリ平270718-121B.jpg
刑務官:「今年(平成27年)の3月の下旬に撮ったものです。」 桑子アナ:「今でも、元気ですね~」 木村さん:「このきれいな花の姿を見られるのは、刑務官の方たちの特権ですね。」 刑務官:「いや、受刑者も当然見られます。」
     
#17、臥龍梅取材風景
%17ブラタモリ平270718-122B.jpg
木村さん:「お城の跡にすっぽり刑務所がつくられたおかげで、余計な開発等されず、正宗が隠しとうしたお城の痕跡が、そのまま残ったということです。」
     
#18、施設見学終了
%18ブラタモリ平270718-124B.jpg
タモリさん一行:「ありがとうございました!!」
    
#19、宮城刑務所の取材を終えて
%19ブラタモリ平270718-125B.jpg
刑務官:「どうですか?一歩塀の中から出て頂いて?」 タモリさん:「久しぶりのシャバだな~シャバの空気はいいな~」 一同:「笑い」 ※ブラタモリ「仙台・杜の都編」はここで終了でした。我々が施設見学をした時間は正味20~30分くらいだった思います。
    
#20、矯正展中央ステージ近辺の風景(11時02分撮影)
%20宮城刑務所09B.jpg
当日は、快晴で、風も無く気持ちの良い天気でした(仙台地方11時現在。気温17.4℃、湿度52%、風速:東の風・風速0.8m)。 この番組(ブラタモリ・仙台・杜の都の秘密)が放送されたのは、平成27年7月18日(土)でした(同「仙台・地形と用水」編は、7月11日(土))。 同年の10月25日に第1回ブラタモリトレースと称する散歩会(中学同期メンバー)をはじめて以来、今回で第7回(最終回)となりました。毎年5月10月(今回は11月)に開催して来ましたが、全部の会で天候には恵まれました。
    
#21、仙台89ersチアーズの演技
%21宮城刑務所08C.jpg
仙台89ERSは、Bリーグのプロバスケットチームです。89ersチアーズはそのチアリーダーで、華麗なダンスと元気な声援で仙台89ERSのホームゲームを盛り上げています。
     
#22、チアーリーダーとキャラクターによる抽選会
%22宮城刑務所19C.jpg
ティナ君(※)から特別賞授与。中身は、サイン入りユニフォームおよびその他でした。 ※ティナ君:仙台89ERSのキャラクター(子どものライオン) きたろうは、1番違いではずれました(残念(-_-;))(前後賞はありませんでした)
     
#23、受刑者製作物の販売
%23宮城刑務所10B.jpg
矯正展のメインのコーナーです。製作物は、木工品、衣類、バッグ、洗剤等いろいろなものが販売されていました。 きたろうもスマホ・スタンドを買おうとしましたが、スマホケースに入れたままだと、スタンドの穴に収まらず、断念しました(裸だと入るが))。 ここは、宮城刑務所のコーナーですが、隣県の、山形、福島県の刑務所、さらに遠く四国、九州の刑務所からの出展もありました。  その他、ラーメン、カレー等の食事コーナー、ドーナツ、焼き鳥等の販売コーナーもありましたが、割愛しました。
     
#24、完全に出所しました
%24宮城刑務所15ブログ用.jpg
次の予定もあったので11時30分頃、宮城刑務所を完全に出所しました。
    
#25、「出所者の出迎えについて」(注意表示板)
%25宮城刑務所20B.jpg
門の右側刑務官詰め所の右側に、注意表示板が掲げられていました。
    
●見学を終えて 刑務所内の建物は、思っていたほどいかめしいものではありませんでした。構内の地面や樹木は、清掃整備が行き届いており、きれいでした。グランドもあり、受刑者でソフトボールのゲームが行われるとのことでした。建物の鉄格子や塀に設置された電線に気づいたときに、ここは刑務所の内部なのだな~とのなんとも言えない感慨がわきました。
     
<宮城刑務所へのアクセス>
●地下鉄薬師堂駅からバス
①73系統、藤田行きまたは70系統、霞の目営業所前行き「南小泉三丁目」下車、徒歩10分
②75系統、長町南駅・太白区役所前方面「古城二丁目」下車、徒歩0分
※但し、75系統は平日は便数が非常に少ない上、休日は運休なので、ご注意ください。
●地下鉄河原町駅から
①徒歩18分
②河原町駅東(バス停)から75系統薬師堂行き、「古城二丁目」下車、徒歩0分
※但し、75系統は平日は便数が非常に少ない上、休日は運休なので、バスの利用はあまり推奨しません。
     
END
    
   

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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その2) [広重・名所江戸百景]

取材:2018年10月10日(水)
アップ:2018年10月24日(水)

前回(その1)は、「広尾ふる川」を画いた場所が天現寺付近と考え、この近辺を取材しました。また、画かれた橋は、何橋か確証のないまま、漠然と天現寺橋であると考え、前回は、天現寺橋近辺を取材しました。
 ところが、その後、#01の右に示した、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵をネット上で発見し、この絵は天現寺橋より約800m下流の四之橋(しのはし)付近から画かれた絵であることが判りました。
 この絵は、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」という絵で、広重が名所江戸百景を画いた6年前54歳のときに画いた絵です。この表題に書いてある橋「相模殿橋」とは、古地図にも明記されているように、「四之橋」のことで、この橋名は、現在もそのまま残っています。

#01、名所江戸百景「広尾ふる川」と絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
$01広尾ふる川と麻布古川相模殿橋JPEG.jpg
二つの絵は、明らかに同一の場所をほぼ同一の視点から画いています。両方とも俯瞰描写で絵本江戸土産の方は、推定6mの高さから画かれています。名所江戸百景の方は、推定30mほどの高さから画かれています。
 絵本江戸土産の方は、実際にこの高さから見て画いたという可能性はありますが、名所江戸百景の方は、広重の得意とする「ありえない視点」からの想像(創造)の絵と考えられます。
 さて、この二つの絵で、古川にかかっている橋は、前述のとおり、四之橋です。画面左の料亭は、古地図に⑨と示したように、「狐鰻」という料亭です。橋と料亭の間によしず張りの茶屋があり、この通りは、結構人通りが盛んであったことを物語っています。
 料亭の、右側の屋根は、黒田甲斐守等の武士の屋敷の屋根と考えられます。さらに、その後方に広尾原が画かれています。
 この二つの絵は、同一の場所を画いているのにかかわらず、印象がかなり違います。特に川の両岸と広尾原の部分は、絵本江戸土産の方は、草が荒れた感じで生えているのに対し、名所江戸百景の方は、庭園の草地のように良く手入れされているように画かれています。また、石垣も絵本江戸土産の方は雑に積んであるのに対し名所江戸百景では形の整った石をきれいに積んでいるように画かれています。 これは、実際の景色がこのようになったのではなく、名所江戸百景の方は、写実性からやや脱却し、様式美の方向へ進んで行った広重の変化と見て取れます。このことは、前々回の「鎧の渡し小網町」でも同様なことが見られました。

#02、広重「広尾ふる川」の舞台(広域版)
$02広尾ふる川近辺の古地図(広域).jpg
 今回の取材も、#02の(イ)の地下鉄「広尾」駅で下車、①の天現寺付近を再取材し、さらに⑥光林(禅)寺、⑦、⑧、⑩四之橋付近へと歩を進めました。

#03、広重「広尾ふる川」の舞台(古地図・拡大版)
$03A05広尾ふる川近辺の古地図(拡大).jpg


#04、広重「広尾ふる川」の舞台(現在)
$04広尾ふる川近辺の現在の地図(拡大).jpg


#05、光林禅寺表札(駐車場)
$05南麻布光林寺Ⅱ065.jpg
光林寺(こうりんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。慈眼山光林寺。所在地は東京都港区南麻布四丁目11番25号。

#06、光林禅寺の山門
$06南麻布光林寺Ⅱ066C.jpg
取材日の一寸前(2018年9月30日)に、光林寺にて女優の樹木希林さんの葬儀が執り行われました。

#07、四の橋交差点
$07四の橋交差点Ⅱ074C.jpg
地図の⑦と⑩の中間辺りから、南側交差点を望む。

#08、四之橋(四の橋交差点側から望む)
$08四の橋北詰Ⅱ076.jpg
橋の表記は「四之橋」で、読み方は「しのはし」です。橋の北側すぐの明治通りの交差点名は「四の橋」交差点です。古地図では「四ノ橋」で、「相模殿橋トモ云」と記されています。これは、地図で⑦の位置に土屋相模守の下屋敷があったためにそう呼ばれました。
 広重の名所江戸百景「広尾ふる川」で画かれた橋は、まさにこの橋でした。

#09、四之橋下流から古川と四之橋を望む
$09広重広尾ふる川に相当する写真Ⅱ080C.jpg


#10、名所江戸百景「広尾ふる川」が画かれたと同一の現在の視点
$10広尾ふる川今昔比較(四の橋).jpg
この画像が、名所江戸百景「広尾ふる川」画かれた、視点に最も近い画像と思われます。
 広重の広尾ふる川の原画では、近景に木造の橋、ヨシズ張りの茶屋、評判の鰻屋が見られ、遠景に庶民が散策を楽しむ広尾原が広がっているという、江戸時代としてみれば、郊外の一観光スポットのような地域を画いた絵であります。
 それに、対し、この写真では、中心となるのは、コンクリート製の川の護岸の壁と上を覆う高速道路というなんとも都会の無機質な景色で、名所というには、程遠い画像でした。 
 しかし、この一枚は、広重の視点と同一の場所からの一枚で、押さえの写真として重要です。
ここで、これとは別に、この近辺で、「広尾ふる川」のイメージにより近い画像が無いかということで探して見ました。そうしたところ、本シリーズの前々回(9月30日アップ)の、写真#05がこれに該当すると思われました。この写真を#11として、再掲いたしました。

#11、名所江戸百景「広尾ふる川」のイメージ再現の一枚
$11広尾ふる川今昔比較(天現橋).jpg
これは天現寺橋から西方を望んだ写真です。この写真では、川と橋の要素に加え、向かって左の岸は、木々に覆われ、視線は開けていて遠くまで気持ち良く見通すことが出来ます。この、一枚は、イメージの再現の一枚として貴重な写真です。
 この写真は、天現寺橋上から、西、回生橋(注)方向を写した写真です。
 この景色であれば、名所とは、いえませんが、しばし、佇んでこの景色を楽しむということは可能です。

注)回生橋:天現寺橋の西方40mに架かっている橋。明治通りから、広尾病院の北駐車場に通ずる橋です。

本シリーズでは、広重の名所江戸百景の絵を、広重と同じ視点で写真を撮影、その今昔を比較すると言う事をやっています。一枚の写真で、広重の絵を再現するのが理想ですが、これが出来るのはめったにありません。
今回の広尾ふる川では、次に示した部分は、一枚の写真で示すのは出来ませんでした。

#12、名所江戸百景広尾ふる川・ヨシズ張りの茶屋と狐鰻
$12広重広尾ふる川左部分の拡大.jpg
広尾ふる川」の浮世絵原図と比べると、川と橋は撮影出来ました。しかし、この位置からは、原図左端に画かれたヨシズ張りの茶屋と狐鰻に相当する部分は、川岸の建物に遮られて見えませんでした。

#13、広尾ふる川四ノ橋近辺の地図の今昔
$13広尾ふる川近辺の新旧地図.jpg
ヨシズ張りの茶屋に相当する場所と狐鰻に相当する場所が両方撮影できる位置からの写真を#14に示しました。

#14、四の橋南詰め(白金1丁目及び2丁目)近辺(パノラマ合成写真)
$14白金2・3町目画像Ⅱ094B4.jpg
この近辺の今昔の地図及び名所江戸百景と現在の写真を見比べると、昔のヨシズ張りの茶屋は、画面中央の自転車がおいてある所に、また、狐鰻は、画面左側の田島町会館のところにあったと推定出来ました。

#15、旧田島町にあった「狐鰻」と現在の田島町会館
$15狐鰻の新旧.jpg
昔、狐鰻があったところは、現在田島町会館という建物が建っています。狐鰻のあったところの建物が、江戸期の地名「田島町」に因んだ会館名にしてあるのには、興味が惹かれました。

さらに、この位置からは、昔の広尾原は到底眺むことは困難でしたが、それに関しては、次回で話を進めることとします。
(続く)


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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その1B)  [広重・名所江戸百景]

アップ:2018年10月8日(月)

※今回は、現地取材内容に基づいた記事ではないので、「その1B」としました。

#13、名所江戸百景「広尾ふる川」(再掲)
#13広重名所江戸百景広尾ふる川.jpg
今回この地の取材は、手持ちの資料の「この絵は南麻布天現寺橋を渡った先にあった広尾原を描いていると考えられる。」という記述に従って、天現寺橋近辺の川沿いの写真を撮影してきました。
 自宅に戻り、広重が当時画いた地点を特定すべく、古地図で検討しました。人文社の「嘉永・慶応江戸切絵図」及び「明治の東京」で、天現寺橋を探しましたが、これらの地図では天現寺橋と明記された橋は見つかりませんでした。

#14、広尾ふる川の舞台「東京大絵図」(明治4年)
#14広尾ふる川近辺の古地図.jpg
上の地図で、①が天現寺、②が現在の天現寺橋が架かっている場所です。しかし、この位置には当時橋は架かっていませんでした。
天現寺の辺りで、③広野原を遠望し、手前に橋がある景色ということで、この時点で一応④の近辺からの景色を、画いたと考えました。(青矢印の方向を画いた?)
 ところが、ネットで広尾の昔の調べを進めているうちに、広重が50歳代のときに画いた「絵本江戸土産」という絵を見つけました。

#15、絵本江戸土産「麻布古川相模殿橋広尾之原」
#15絵本江戸土産麻布古川相模殿橋広尾之原B.jpg
#13と#15の絵はそっくりで、同じ場所を画いたものと考えられました。
即ち、この二つの絵は、古川に架かっている相模殿橋の東側から相模殿橋と遠景として広尾原を画いたものということが判明しました。
※相模殿橋は、上の地図の⑨四ノハシのことで、広重は赤矢印の方向を画いたと考えられる。

 今回の取材では、現在の天現寺橋の周辺を取材しましたが、結果的に、大分的外れな取材だったことがわかりました。
 従って、早急に再取材し、改訂版をアップしたいと考えます。


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第27回、広重・名所江戸百景「広尾ふる川」(春22景)(その1) [広重・名所江戸百景]

取材:2018年9月5日(水)
アップ:2018年9月30日(日)

今月の初め、知り合いが、南麻布で夕方から、ヴァイオリン・リサイタルを行うということで、その前に、どこか広重の名所江戸百景の取材をしようと思いました。地図を見たところ、演奏会場のすぐそばに、名所江戸百景「広尾ふる川」の舞台となった場所があり、ここを取材することにしました。

#01、広重画名所江戸百景「広尾ふる川」(1856年)
%01広重名所江戸百景広尾ふる川.jpg
 まず、この「広尾ふる川」ですが、なんとも地味な絵です。名所江戸百景で採り上げられる風景は、著名な神社仏閣、花鳥風月で特徴のあるところ、謂れのある名木、伝説や物語の舞台となったところ等、なにか名所たる所以のある所です。
 しかし、この絵で特徴的なものは、川と橋及び画面左に料亭のようなものが見られるだけで、絵そのものから、名所江戸百景に選出された要素は見当たりません。
 但し、表題には示されていませんが、正面奥の丘状の部分は、「広尾の原」と言って、将軍の鷹狩り、または庶民の遊歩散策の場所として、「江戸名所図会」に採り上げられていることから、名所江戸百景でも採り上げたものと思われます。

#02、名所江戸百景「広尾ふる川」が描かれた場所近辺の地図
%02地図天現寺近辺地図.jpg
私が、参考にしている、名所江戸百景に関する種本(注1)には、この絵を描いた場所として、「南麻布天現寺橋を渡った先にあった広尾原を描いていると考えられる」とだけの記載で、描かれている橋の橋名も上流から描いたのか、下流から描いたのか等詳しい記載はありませんでした。
注1)広重の大江戸名所百景散歩、人文社、1996年

#03、「広尾ふる川」関連写真撮影場所
%03広尾ふる川撮影場所詳細.jpg
広重が画いた名所江戸百景と同一視点で写真を撮るというのが、本ブログの命題ですが、広重の江戸末期の視点がはっきりしないまま現場に行きました。従って、広重の視点の可能性のあるところを、全部撮影して来ました。
※図中④~⑫の地点は、以下の写真#04~#12の写真と対応します。

#04、広尾病院の北側にある橋から西方を望む
%04広尾病院近辺から西方を望む.jpg
広尾原は、広尾病院の西の方にあったと考えられるので、まずここから、西方を撮影しました。
画面向かって左は、広尾病院、右は岸ぎりぎりまで、高層の建物がびっしり建っています。

#05、天現寺橋から西方を望む
%05天現寺橋から西方を望む05B.jpg
見えている範囲は、#04とほぼ同じです。

#06、天現寺橋交差点(歩道橋上)から西方を望む
%06天現寺橋交差点(歩道橋)から西方を望む07B.jpg

広重の「広尾ふる川」は、広重得意の俯瞰描写で画かれています。広重の視点に幾分かでも近づけるため、歩道橋の上から、西方を撮影して見ました。

#07、天現寺橋交差点から南西方向を望む(Googleストリートビュー)
%07天現寺橋交差点から南西方向を望む07C.jpg
今までの写真では、建物等で、視線がさえぎられ、広尾原方向が見通せないので、ちょっと視点を変えて、遠景が見えるようにして見ました。
※但し、Googleストリートビューでの画像です。

#08、天現寺橋親柱(南東のもの)
%08天現寺橋南西親柱14B.jpg
その他、参考写真として撮影しました。

#09、「清流の復活」の石碑
%09天現寺橋清流の復活13B.jpg
天現寺橋の南東のところにある石碑です。
これに関しては、次回説明します。

#10、天現寺橋交差点全景
%10天現寺橋交差点34B.jpg


#11、天現寺
%11天現寺33D完.jpg
交差点名、及び橋の名前の元となったお寺です。

#12、亀屋橋から西方を望む
%12亀屋橋から西方を望む36C完.jpg
念のため、天現寺橋のかなり東方からも撮影して見ました。

以上、一通り、広重が画いたと思われる視点の候補はおさえました。
しかし、どこの場所が正解としても、いずれの写真も、両岸ぎりぎりまで、建物等が迫っており、広重の広尾ふる川の絵とは、大変かけ離れていました。
次回は、橋のたもとにある料亭の建物や広尾原について、および、清流の復活の碑等に関し、考察致します。
(続く)


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