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きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(4)” [歌川国芳]

3月28日(月)アップ
    
 前回(3)で国芳の東都三ツ股の図に描かれた対岸の現地調査を行いました。深川江戸資料館では、国芳の絵の一番左に描かれた火の見櫓の原寸再現建築を見ることが出来ました。また、文献調査をするのであれば江東区立深川図書館の方が良いとの助言を頂きました。
    
 3月24日(木)都内で所用があったので、その帰り道深川図書館に寄りました。係りの方にその旨・目的を告げると、2階の「郷土資料室」という鍵のかかった部屋に案内されました。部屋に入る前に、利用表のようなものに住所・氏名等記入し、かばんはロッカーにしまい、筆記用具のみ携行して中に入りました。専門職員の方も、一緒に探して頂けることになりました。この方と、資料室内にある、江戸末期のこの近辺の地図や江戸名所図会的なもの、風景を描いた浮世絵等探しましたが、江戸末期・江東区で火の見櫓があった場所の特定は出来ませんでした。小林清親の「三ツ又 永代橋遠景」と題する浮世絵がありましたが、惜しいことに、この絵は国芳の三ツ股の図の右半分に相当する部分を描いたもので、謎の塔と火の見櫓のある左側の方に相当する部分は描かれていませんでした。
    
#01 小林清親/三ツ又 永代橋遠景(ネット上からピックアップ)
#01小林清親 永代橋遠景.jpg
http://www.yaf.or.jp/yma/arts_sellection/selection/ kato_collection/1985_prj/M/00300004.JPG
    
図書館は、原発事故に伴う省電力で5時閉館のため、「井戸掘り」に関しては時間切れで調査出来ませんでした。次回は井戸掘りに関し調査したいと思います。
    
以下、深川図書館と周辺の写真を掲載します。
    
#02 深川図書館・正面玄関
#02深川図書館玄関.JPG
この入口が正面玄関ですが、最初裏口かと思いました。重厚感のある建物なのに、扉の色が薄い緑なので、裏口と勘違い?と自己分析しました。きたろうは扉の色は金色ならこの建物にマッチすると思います。(安っぽい金色ではダメ)
    
#03 深川図書館の北側(清澄庭園・南作業用通用口)
#03清澄庭園の南に隣接.JPG
深川図書館は清澄庭園の南に位置します。ここは、清澄庭園の南の作業用の通用口。
    
#04 深川図書館の玄関燈
#04アンティークな玄関燈.JPG
アンティークな玄関燈。ノスタルジック的で良い!
    
#05 深川図書館の掲示板
#05深川図書館掲示板.JPG
深川図書館南側(道路側)にある掲示板。画面右側は公園。
本文END

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きたろう散歩番外編”水道の放射能汚染と羅漢の井(Ⅰ)(注)” [きたろう散歩]

ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で被災された方には、心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々へ謹んでご冥福をお祈りいたします。
   
3月27日アップ
 3月24日夕方、「栗山浄水場の水から厚生労働省が定めた乳児の暫定基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える180ベクレル放射性物質の放射性ヨウ素131が検出された」との報道を聞きました。前日には、金町浄水場から、基準値を超える放射能が検出されていたので、千葉県も「やっぱりな」という感じでした。きたろうの住んでいる所は、多分栗山浄水場から給水されているはずで、放射能で汚染された水は飲みたくないと思いました。
   
 TV・ラジオから何度も流れている、「直ちに健康に影響は無い」というセリフは全く信用出来ません。放射能汚染の原因となった、原発だって、安全というアナウンスしか、一般大衆には説明されてなかったと思うが、あんなにもろいものだとは思いませんでした。東京電力は、「想定外の地震・津波」のような言い訳をしているようですが、地震では、炉芯は安全に運転が停止したわけですから、津波が想定外という言い訳は説得力がありません。炉心が安全に停止したのであれば、冷却装置も滞りなく運転が始まるような対津波の設計基準が必要だと思います。炉芯の耐震基準の厳しさに対し、冷却装置の対津波の設計基準が甘すぎるとしか考えられません。現に、平成19年には、共産党が、津波に対する対策が弱いと指摘し改善を要求しているということではありませんか。共産党の勧告を受け入れ、今回の津波に耐えうる構造にしていたら、今頃は、安全にクールダウンしていて、逆に、日本の原発の安全性が証明され、世界に誇れたはずでした。(共産党の指摘は、地震発生時の引波により、冷却水が取り入れられなくなるという指摘で、若干的はずれのような感も無きにしもあらずですが、津波に対する、設計が甘いという点では正しいと考えられます)
    
 
 さて、一億総評論家はこの位にして、きたろう家の対水道汚染対策をどうするかという緊急課題が生じました。ペットボトル入りのお茶2ℓが一本とスポーツ飲料2ℓが2本がきたろう家の在庫です。水は、地震以来店頭で見かけたことも無く在庫ゼロです。飲み水としてはお茶とスポーツ飲料でしのげますが、調理用の水をどうするか?このレベル程度の放射能では、1年間飲んだとしてCT検査程度の放射線しか浴びないというのであれば水道水を使おうか?なんで、最大の努力を払ってでも、ペットボトルの水を確保しなかったのか。いや、地震以来ペットボトルの水を買いだめするよう行動は、被災者の方に対する物不足を助長するのでは?等々とめども無くいろいろな考えが頭の中をめぐりました。その時、里見公園の所の湧水を利用したらというアイデアが浮かびました。湧き水であれば、まだ、放射能に汚染されていないし、しかも無料である。明日、汲みに行こうと言う事で一安心して寝ました。
   
#01羅漢の井・全景.jpg
   
 翌、25日朝、2ℓのペットボトルを数本持ち、通常なら車で行くところですが、ガソリン温存のため、自転車で行きました。お彼岸が過ぎたというのに非常に寒い!江戸川の土手の草は、霜でうっすら白くなっていました。この湧水は由緒正しい湧水で、江戸名所図会に「総寧寺羅漢井」として描かれていますが、今まで関心を持って接した事はありませんでした。朝7時ちょい過ぎに着いて、ペットボトルに水を汲みました。ここの湧水及び湧水周りは大分きれいに整備されていました。また、以前からそうでしたが、注意書きの看板があり「この湧水は、飲料には適しません 市川市」となっていました。確か、以前どこかで、菌が検出されるのでこのような看板を出していると言う事を聞いたような気がしました。
    
#02羅漢の井.jpg
※改修年を訂正しました[平成19年(誤)→平成20年(正)]
    
 ともかく、その日は、直接飲用は、スポーツ飲料、コーヒー用(インスタント)は、この湧水で過ごしました。調理用(味噌汁、お茶、そばのつゆ用等)に湧水を勧めましたが、家の者は、湧水より仮に放射能があっても水道の方が良いとの事で、調理用には使いませんでした。汲んで来た湧水・ペットボトル1本を煮沸消毒しました。煮沸はしましたが、ふと、なんで飲用不適なのかという疑問が湧きました。また、朝あの湧水の前を通ると、大抵水を汲んでいる人がいるのに、今日は水を汲んでいる人がいなかったのだろうという疑問が湧きました。
    
 26日朝、ネットで、羅漢の井の情報を得ようと調べました。市川市のHPでは、この湧水は「施設の案内」コーナーで紹介されていて、「この湧き水は、このままでは飲料用には適していません。」と赤色の文字の注意書きがありました。理由は書いてありませんが、”このままでは”と書いてあるので、煮沸すれば良いのかな?とも思いました。その他ネット上には、「名水百選」的な物、名所案内的な物、散歩ブログ的な物多数ヒットしました。しかし、水質または飲用不可の理由まで言及したものは見当たりませんでした。この日の朝、ペットボトル2ℓが2本空いたので、また、湧水を汲みに行くことにしました。6時ちょい過ぎに、湧水に到着、既に汲んでいた男性1名、汲み終わって、自転車を押して坂の上の方に去って行った男性1名がいました(年齢層はいずれも60代~70代)。きたろうが、汲み終わって写真を撮ろうとしたら、もう一人の方が汲みに来たので、写真撮影は中断、周辺の様子を撮影していました。その後、女性の方が汲みに来ました。この湧水を汲みに来る常連の方は多分6時代に来るのかなと思いました。
    
#03里見公園下の案内板.jpg
    
 先程の男性と女性の方は水を汲み終わって、脇でお話をされていましたので、羅漢の井を撮影しました(写真#02)。この、女性(Hさん)は、この湧水はおいしいので、汲みに来ているとのこと。また、これから、この湧水に惚れ込み、この近所に引っ越してきた方の所へ、伺うということなので、きたろうも同行することにしました。この方は、湧水の坂の上50m程上で美容室をやっている方でAさんという方だそうです。美容室の前で、きたろうが、店名、電話番号等メモしていると、犬の散歩に出かけるAさんが出て来ました。Hさんが、声を掛け、犬の散歩に同行しながら、この湧水に関するお話をして頂けるという事になり、以下、その伺ったお話を歴史ストーリー的にまとめました。
    
『江戸期に、名所図会に描かれた程の総寧寺羅漢井も、戦争中には捨て置かれて荒れてしまいました(湧水は出ていた)。戦後、引揚者の金谷さんと言う方が、この湧水の近くに、掘立小屋を建て住み始めました。水は、この湧水から調達することにして、ホースから湧水を取り込んで、ドラム缶に溜めるという簡単な給水設備を作りました。金谷さんが住みついたところは、国有地の一角で、湧水のある場所は市が管理している区域ですが、金谷さんは国及び市に無断で、各々占有していました。
 平成の始め、一人のお父さんが自分の娘さんが食が細く、ミルクの飲みが悪いということで悩んでいました。その方がAさんで、Aさんはある人に勧められて、ここの湧水でミルクを溶いて、娘さんにあげたところ、ごくごくとミルクを飲むようになりました。Aさんは水を汲みに毎日ここへ通うようになりました。ある日、金谷さんから「毎日、来ているようだが、ここの湧水の管理の手伝いをしてくれ」と頼まれました。湧水の管理とは、ここの湧水は流量が細いので、流路が小石などでふさがると、ドラム缶に導くためのホースに、うまく水流が入りらなくなったりするのを防ぐことです。この後、Aさんは、すっかり、この湧水に惚れ込み、この近くに引っ越して来ました。  おわり』
    
#04国府台から京成鉄橋方面.jpg
    
 さて、きたろうが一番気になっていた、市川市が飲用不適とした理由と放射能汚染の問題ですが、その点を質問すると、Aさんは個人的に、分析機関で水質検査をしているとのことでした。それによると「大腸菌が、たまに検出される」とのことでした。その他、窒素、重金属等は基準をクリアーしているとのことでした。Aさんは、このままで飲んでも大丈夫と言っていましたが、きたろうは煮沸して飲むことにしました。また、放射能については、湧水に湧き出るまで、Aさんの見解では約20年かかっていると推定されるので、もし放射性ヨウ素があったとしても問題無いレベルに減少しているはずとの見解でした。この話を聞いて、ここの湧水は煮沸すれば、全く安全なことが判りました。
    
#05国府台から東京スカイツリー.jpg
    
Aさん貴重なお話と、情報をありがとうございました。また、偶然めぐりあったHさん、Aさんのお話を聞きにお誘い頂き感謝いたします。
    
注)続編をアップしましたので、本編を(Ⅰ)としました。
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きたろう散歩番外編“望月コレクション・広重二大街道展のご案内”(終了しました) [広重]

17日で終了しました。
    
     
本展示会の訪問記あります。→4月14日アップ「望月コレクション・二大街道展を鑑賞する」
****************************************
3月24日アップ
春恒例の、望月コレクションの展示会がありますので、ご案内致します。
展示会名:広重二大街道展 木曾海道六拾九次 東海道五十三次
期日:2011年4月3日(日)~4月17日(日)(AM10時~PM6時)最終日はPM5時迄
   終了時間が、省エネのため変更になっています。
   終了時間当初はPM6時→変更PM5時(最終日は、当初PM5時→変更PM4時30分
会場:千代田区立九段生涯学習館2階、千代田区九段南1-5-10
最寄駅:地下鉄九段下出口6徒歩0分
入場無料
#00望月コレクションのポスター.jpg
※このポスターは、深川江戸資料館前に貼ってありました。
          
入場料は無料なので、興味と時間のある方はぜひご覧になってください。
    
望月さんは、何年か前から個人で収集している、広重のコレクションを九段生涯学習館で春に展示を行っています、昨年は、名所江戸百景全揃いを展示しました。
    
この、展示会をネットで検索しましたが全くヒットしませんでした(3月23日現在)。
今の所、ネット上では、唯一のご案内ですので、以下に「木曾海道六拾九次」、「東海道五十三次」に関する解説を加えました。
    
<保永堂版「東海道五十三次」>
国際浮世絵学会会長 立正大学名誉教授
文学博士山口 桂三郎氏の解説
『世界的巨匠広重は、生涯を通して「東海道シリーズ」の作品を二十数種類制作している。その中でも最も傑作といわれるのは、一番初めに描いた出版元保永堂で刊行した「東海道五十三次」である。この作品こそ爆発的売れ行きを見せ、広重をして一躍浮世絵界のスターダムにのし上がらせた。その理由は、先ずそれまでに描かれた「東海道シリーズ」のなかには見られない最も大きな大判(約39センチx27センチ)というサイズで描き上げられていること、次にこの全五十五枚で完成している作品は「まのあたりそこに行たらむここち」にさせるものであった。その画面は変わりゆく宿々の自然と融和した旅に行く人々の姿を巧に活写し、しかもそれに朝焼け・霧・雨・雪・風のシーンを絡ませ、その中に叙情的な画面を見事に描き出した。これらは浮世絵風景画の初めての試みといえよう。このシリーズは北斎の「冨嶽三十六景」とともに、浮世絵の主流であった美人画・役者絵と並んで風景画の成立を宣言するもので、広重三十歳後半、1830年代半ばの名作となった。』
(広重不朽の名作・保永堂版「東海道五十三次」平成の復刻)
「髙橋工房HP」より
    
<木曽海道六十九次>
「Kumamoto's Home Page」より
『木曾海道六拾九次之内』(木曾海道とは中山道の事。当初、英泉は『木曾街道』としていたが、途中から引き継いだ広重が『木曾海道』と した。)は、叙情的な風景画の広重と官能的な美人画の英泉という作風の異なる江戸後期の代表的な浮世絵師による連作。天保6年 (1835)、『木曾海道六拾九次之内』は英泉が日本橋から描き出しました。しかし、表現が硬く、洒脱を好む江戸っ子には受け入れられません でした。そこで版元も保永堂から伊勢利に移り、絵師も『東海道五十三次』を発表、人気絵師となっていた広重を起用、引き継がせました。結 果、69宿場70図(中津川宿2図)と日本橋を加えた71図を完成させました。そのうち、英泉が24図、広重が47図を描きました。
    
NPO法人科学映画館が無料で配信している短編映画「廣重」も、下記サイトから、併せてご覧ください。この映画は、廣重が描いた東海道五拾三次とその舞台となった景色との対比を主軸に構成されています。1955年の制作ですので、約180年前の日本の風景と、56年前の日本の風景が同時に楽しめるという貴重な映画です。
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きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(3)” [歌川国芳]

ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で被災された方には、心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々へ謹んでご冥福をお祈りいたします。
        
3月21日アップ
        
深川江戸資料館では、火の見櫓の原寸再現建築を見ることが出来ました。深川江戸資料館を出て、仙台堀川沿いに隅田川の方へ向かいました。
        
#10B地図永代橋.jpg
国芳の絵で画面左にある橋について、東京新聞は萬年橋であるという立場でした。国芳は、この絵を、日本橋中州から描いたとされています。古地図で確認すると、中洲の対岸には上流から、萬年橋、上之橋、中之橋、下之橋があります。(いずれも隅田川と直角に交わる堀(川)の河口に架かる橋)このうち中之橋、下之橋は、大分下流の方にあるので、国芳の絵の左側の橋には該当しません。萬年橋または上之橋が、国芳の絵の左側に描かれた橋の候補です。
        
#11海辺橋より西方仙台堀川を望む.jpg
※写真をクリックすると、拡大表示出来ます。(他の写真も同様)
 また、各写真の撮影位置・方向は図#10Bを参照してください。
        
この仙台堀川の先に、かつては上之橋がありました。現在は、排水機場があって、隅田川は見通せません。昔、この堀の北岸に仙台藩の米蔵があったのに因んで仙台堀(川)と名付けらました。この川の両岸には、桜が植えてあり遊歩道になっています。南岸の遊歩道を、西方へ移動しましたが遊歩道の所々に芭蕉の句を表示した高札状のものがありました。花見の時期、俳句ファンには絶好のスポットと言えます。
        
#12仙台堀川に架かる清川橋.jpg
清川橋の後方(西方)画面左の建物は清澄排水機場、中央右寄りの白い建物は読売江東ビルです。
        
#13清澄排水機場.jpg
江東区の低地を水害から守る一連の設備のひとつだそうです。高潮の恐れや津波の襲来があるときは、この川と繋がっている複数の川の、隅田川または荒川との接点にある水門は閉じられます。そのとき、大雨が降っていると当然川があふれる危険があります。これを防ぐため、排水ポンプで仙台堀川の水を隅田川に排水する設備です。従って、普段は動いていません。排水能力はなんと1秒間に48tだそうです。昭和61年に建てられましたが、それより前は、ここには水門がありました。この施設は、仙台堀川が隅田川と繋がる部分を暗渠化しその上に建てられているので、仙台掘川の水面が見えるのはここまでです。
        
#14アサノコンクリート㈱.jpg
現在、アサノコンクリート(株)がある場所に、かつて、浅野セメント工場がありました。浅野セメント工場は明治14年日本初のセメント工場として、ここで創業しました。 浅野セメント工場は、その後企業合併等で、現在は太平洋セメント㈱になり、アサノコンクリートは、そのグループ会社のひとつです。会社案内を見ると、「良質なレディーミクストコンクリートの安定供給」と書いてあり、普段「生コン」と略して言っているのは、正式には「レディーミクストコンクリート」と言うことが分かりました。
        
#15セメント工業発祥の地説明板T.jpg
        
この説明板は、工場の道路沿いに、明治時代に作られたコンクリートブロックや、セメント工業発祥の地を記念する石碑(コンクリート碑?)や、浅野セメントの創業者の銅像がまとめて置いてある展示スペースの左端にあります。ここに書いてある説明文を、以下そのまま記載しました。 『当地は日本で初めてのセメント工場のあった場所です。明治8年、工部省が本格的な セメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料 の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上ました。明治16年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展をとげました。   平成16年5月 太平洋セメント株式会社』
        
#16明治時代に作られたコンクリートブロック.jpg
明治27年に製造されたとのことですが、このコンクリートブロックの右脇にある説明文を次にそのまま記載します。 『明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。』  このコンクリートブロックは、江東区の登録文化財になっています。
        
#17本邦セメント工業発祥の地碑.jpg
この碑のベースはコンクリートのようです。石碑ならぬコンクリート碑(?)。
         
ここの、展示スペースでは全く触れられていませんが、浅野セメント工場は、操業開始数年後から公害問題を引き起こしていました。この地は、日本の公害の第1号の地でもあります。操業以来。長期間近隣住民は工場の操業中止を求めて来ました。しかし、操業開始から約60年間この地でセメント製造を行い、昭和17年になってようやくこの地でのセメント製造を中止しました。
         
#18上之橋跡北東詰めから.jpg
現在、上之橋はありません、清澄排水機場建設に伴い、排水機場の敷地になる部分から、隅田川との接点まで、仙台掘川を暗渠化したためです。
         
           
上之橋の解説文で、ネット上に簡潔で良いものを見つけましたので、以下そのまま転載します。
         
『上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。 
  
 本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。
昭和61年(1986)11月 江東区』
※「永山不動産HPの内東京都の歴史(江東区)」から引用。(http://tokyokoto.blog.shinobi.jp/Category/14/
 
        
この文章は、教育委員会や区の史蹟説明板の文章のスタイルですが、現地で上之橋についての史蹟説明板のような物は見かけませんでした。(見逃しているかも?)
           
写真#18は、かつて上之橋があった場所を。北東から南西方向に見た画像です。画面左端にある構造物が、残された親柱の一つです。
         
#19上之橋跡南東詰めから.jpg
上之橋跡の南から北方向を見た画像。
         
#20上之橋の親柱と桜.jpg
上之橋跡の南西側の親柱。桜(河津桜と思われる)もほころびはじめました。
        
 
#21上之橋跡から東京スカイツリーを望む.jpg
写真#20の撮影位置近辺から、北方向を撮影した画像。清洲橋越しに東京スカイツリーが望めました。
           
以上、国芳が描いた、三ツ股の図の対岸に該当する地域及び深川江戸資料館内を探索しましたが、国芳の絵の東京スカイツリーの様な塔が何であるかを解く手掛かりはありませんでした。また、国芳の絵の左端に描かれている橋が、萬年橋なのか上之橋なのかを決める手がかりもありませんでした。区立深川図書館で、江戸末期、この辺にあった火の見櫓の位置や、井戸掘りの記録等調べれば国芳の絵の謎に一歩近づけるかもしれませんが、この日の散策目的は一般的な史蹟散策会で、深川図書館に寄る時間はありませんでした。 この後、佐賀二丁目の佐賀稲荷神社にお参りし、永代橋を渡り、永代橋西詰のパノラマ写真を撮ったところから、再び隅田川と対岸・江東区の方を眺めました。大きい川の流れを眺めるのは、いつもながらゆったりとした、いい気分になります。
計画した、残りの史蹟を見学し、いつもの所で恒例の散歩慰労会を行いました。
 
本文END

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きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(2)” [歌川国芳]

ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で犠牲になられた方々へご冥福をお祈りいたします。
        
2011年3月13日アップ
        
今回は、前回の“国芳VS東京スカイツリー”のフォローアップ版ともいうべきレポートです。3月10日定期的に開催される散歩会で、たまたま深川江戸資料館がコースに入っていました。前回の“きたろう散歩”にコメントを寄せられた“お水番さん”が、深川江戸資料館なら、この絵の謎を解く情報があるはずということで、深川江戸資料館では、“井戸堀”、“火の見櫓”をキーワードに調査及び写真撮影をして来ました。
        
※深川江戸資料館館内の写真のブログへのアップについては、当館の方に確認をとったところ、他の見学者のプライバシーが損なわれないよう注意すれば可とのことでした。 (但し、企画展示室内の部分は撮影禁止とのこと。)
        
当日の散歩のコース(部分)及び写真撮影位置とその方向
#01地図永代橋.jpg
※地図上をクリックすると、拡大表示できます。(他の写真も同様)
        
優美な姿の清洲橋。隅田川に架かる橋の中で、最も交通量が少ないらしい。
#02清洲橋.jpg
地図#01に、昔の中洲の地形を再現して示しましたが、明治19年迄は、この辺に文字通り中洲がありました。清洲橋は、日本橋中洲町と深川の清澄町を結ぶ橋と言うことに因んで名付けられましたが、この名前は公募されたものから選ばれたということです。
#03東京スカイツリー万年橋清洲橋.jpg
写真#03は清洲橋西詰から見た、隅田川東岸のパノラマ写真です。上流(左)方向に東京スカイツリー、ほぼ正面に小名木川河口付近に架かる萬年橋、右端に清洲橋が眺められます。 国芳の左の方の橋に関して、東京新聞はこの橋が、萬年橋であるという立場です。 しかし、この撮影位置からだと、萬年橋の左に東京スカイツリーが見えるので、国芳の絵の塔と橋の位置関係とは、逆になります。
        
#04萬年橋.jpg
写真#04は、写真#03の萬年橋部分のクローズアップ写真です。
        
#05清澄公園内時計台.jpg
江戸時代の、火の見櫓の頂上部分に時計を埋め込んだユニークな時計台(清澄公園内)。
        
#06火の見櫓の図.jpg
深川江戸資料館ロビーにある、当館のメイン展示の江戸町並み再現の説明図(部分)。
        
#07江戸の町並み(立体写真).jpg
深川江戸資料館のメイン展示の江戸町並み再現(原寸大)。手前左は土蔵。奥の右側は火の見櫓、左側は船宿です。お水番さんは、当時の火の見櫓は、高さが9m位と認識していますが、この再現建築を見ると概ね9m位ありそうです。(※船宿のてっぺんを約6mとみなすと、それよりも火の見櫓は数m高いので) この写真は、立体写真です。平行観察法で、立体視が得られます。
#08船宿と火の見櫓.jpg
船宿の前から見た火の見櫓。下から見上げると、高さが感じられます。
        
#09江戸の風景ア(線画).jpg
ビデオ視聴コーナー壁面全体に設置してある江戸の風景。描かれているものは、火の見櫓、蔵、大きい橋と現実的なものです。橋の後方に富士山が見えるので、この川は、西南西に流れていることになります。しかし、この絵のように大きい川で西南西方向に流れる川は、現実にはあり得ないので、この絵は、具体的な場所を描いているのではないと言うことが分かります。
#10江戸の風景イ(線画).jpg
同上の、別の壁面にある、江戸の風景、火の見櫓が遠景で描いてあります。この絵が写実的であるとすると、国芳の火の見櫓は大分細長いと思われます。
        
深川江戸資料館に到着直後に、お水番さんが気にしていた、昔のこの地域のどこに火の見櫓があったか?とか、この辺で、井戸掘りの記録があったか?と言うことに関し、当館の若い女性の方にお聞きしましたが、当館にはその類の資料はないとのことでした。文献資料は、近所にある、区立深川図書館の方で所蔵しているとのことでした。
        
最後にロビーにある地域の歴史資料、販売図書の見本、定期刊行物等を出来る限りめくって調べましたが、火の見櫓の位置まで載っている古地図や、井戸掘りに関する記述は残念ながら見当たりませんでした。
        
資料館を出た後、仙台川堀沿いに隅田川の方に歩みを進めましたが、それについては、次回レポートします。
本文END

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きたろう散歩番外編“江戸川から富士山&東京スカイツリーを望む” [富士山とスカイツリーのコラボ]

2011/3/4
江戸川の国府台から大洲のかけての堤防上は、富士山と東京スカイツリーのコラボが眺められるという、絶好のロケーションです。
3月1日、東京スカイツリーが600mを越え、独立の塔として世界一になったというニュースがありました。
3月4日の天気予報は、冬型の気圧配置で、最低気温1℃、最高気温8℃の予報でした。当日の朝、都庁31階からの、富士山方向の静止画像チェックしたところ、富士山がクリアーに見えました。
600m越えした東京スカイツリーと富士山のコラボを撮影するため、国府台に向かいました。国府台の里見公園から、川沿いの道(&堤防上の道)を京成線の江戸川鉄橋まで、南下しながら写真を撮りました。
        
<里見公園北端下付近から富士山と東京スカイツリーを望む>
#01里見公園下遊歩道上から.jpg
※写真をクリックすると拡大表示できます。(他の写真も同様)
里見公園付近からは、東京スカイツリーが左に、富士山が右にみえます。画面右端に都庁が見えます。
        
<里見公園下から、江戸川下流方向を望む>
#02江戸川下流方向を望む.jpg
本日は、真冬並みの寒さです。8時31分現在、推定3℃前後。
<里見公園から富士山と東京スカイツリーを望む(パノラマ合成写真)>
#03里見公園西端からpano.jpg
里見公園は、江戸川沿いの道の崖上にあります。高低差は10m以上ありそうです。里見公園の西側(崖上)は、東京方面の展望台です。富士山方向の展望で、富士山の中央手前に、特徴あるNTTドコモ代々木ビルが見えます。
        
<里見公園内の河津桜>
#04里見公園内河津桜.jpg
一見満開のように見えますが、まだまだつぼみがいっぱいありました。
        
<市川市立第一中学校下から富士山と東京スカイツリーを望む>
#05市川一中下から.jpg
この辺は、崖が川に迫っているので、川沿いの遊歩道の左はすぐ崖になっています。遊歩道の右側は、数mストンと落ちていて堤防を形成しています。
          
<市川4丁目北端から富士山と東京スカイツリーを望む>
#06市川4丁目北端から.jpg
この辺まで来ると、富士山と東京スカイツリーは大分接近して来ます。前々回、ダイヤモンド富士を撮影した地点です。
        
<同地点から江戸川上流方向を望む>
#07江戸川上流方向を望む.jpg 矢切りの渡しは、上流の橋のさらに上流にあります。
        
<富士山と東京スカイツリーのコラボの絶好ポイント>
#08京成鉄橋北300mから.jpg
撮影地点は、京成線江戸川鉄橋の北約300m地点。この辺で、このポイントが、富士山と東京スカイツリーのコラボが最も良く見える地点です。ダイヤモンド富士の撮影日には、このポイントにカメラマンが密集します。 丁度、船が近づいて来たのでフレームに入るようにシャッターを切りました。
        
<富士山と東京スカイツリーが丁度重なるポイント>
#09京成鉄橋北250mから.jpg
富士山と東京スカイツリーが丁度重なる地点は、京成鉄橋の北約250mの地点です。しかし、この地点だと、京成の鉄橋越しで且つ、ビルの陰になっていて富士山が良く見えません。
        
<京成鉄橋越しの富士山>
#10京成鉄橋越し.jpg
上記ポイントからさらに下流(南)へ下り、京成鉄橋の数十m北で、丁度鉄橋越しに富士山と東京スカイツリーが見える地点から撮影。ここまで来ると、東京スカイツリーは、富士山の右に見えるようになります。
この後、アイリンクタウン45Fから、富士山と東京スカイツリーのコラボの撮影を試みましたが、大気のクリアー度が低下、明瞭な画像が撮影出来ませんでしたので、アップしません。 季節から言って、今朝この様にクリアーな富士山の画像が撮影出来たのはラッキーな事でした。
(アップ日:3月6日)
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